スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スリーアローズ・ストーリー 4

 自分が得意とするラグビーの指導者になったにもかかわらず、道に迷いかけていた私でしたが、そんな中にも差し込んでくる一筋の光がありました。
 それは、新しく入ってきた1年生の存在でした。
 まず春先に6人の選手が入部してくれました。熱血漢のI君、サッカー部あがりのT君、野球部あがりのS君、朴訥ながらも闘志を秘めたO君、ラグビーをするとは思えないほどに細身のK君、そして、中学時代は神奈川の選抜チームでラグビーをしていたF君です。
 6人という数は決して多くはないわけですが、私は彼らの真剣に取り組む姿勢に支えられました。もちろん、2・3年生が丁寧に指導してくれたことが大きいのは言うまでもありません。ただ、1年生たちは、無断欠席だけはしませんでした。休まずに練習に参加するというのはごく当たり前のことのはずですが、当たり前のことを当たり前にできるということが、あの時の私には、何よりも尊く感じられました。
 そして、秋には、さらに2人の1年生が加わりました。1人はバレー部から転部してきたN君です。彼は身長も高かったですが、それ以上に高い闘争心をもっていました。
 もう1人は、サッカーの有望選手で、キャプテンと同じサッカーチームに所属していたM君です。身体能力が高いからということで、キャプテンが勧誘してくれたわけですが、結局M君は、サッカーを辞めてラグビー一筋に取り組むことになります。そうして、後に新しいチームのキャプテンとして活躍する選手に成長します。
 3年生の引退を夏に控え、寂しい想いに駆られていた私でしたが、8人の1年生に励まされながら、グラウンドに立ち続けました。
 当初は選手たちを支えようと決めていた私でしたが、気がつけば、選手たちに支えられる監督になっていました。
スポンサーサイト

スリーアローズ・ストーリー  3

 これは今でも変わらないことですが、私は「自分の意見をきちんともっている人」が好きですし、そんな人をこそ応援したくなります。それで、その時の私は、まず動揺を抑えて、キャプテンをはじめ、監督としてチームを支える立場でいようと考えました。
 自分の意見をもつ選手は、主体的に行動することができます。ラグビーのプレーにもそれが現れました。初めて臨んだ春の地区大会は「少人数リーグ」での参加ではありましたが、1人ひとりの個人技が光り、全勝という結果で終えることができました。
 ところが、その大会が終わった頃、あれっ? と思うことが起こりました。選手たちの欠席がやたらと多くなったのです。無断欠席もあったし、中にはギターの練習に行く選手もいました。しかも、キャプテンは、地域のサッカークラブに所属していて、そこでもキャプテンをしていることが発覚したのです。彼は週に2~3日は練習を休みました。どうやらチーム全体の欠席が多いのは、このことが影響しているのだと私は気付きました。
 さらに大きな問題がのしかかってきました。8人の3年生全員が、夏の大会が終わったら引退するというのです。その学校は県下でも有数の進学実績があり、ほとんどすべての生徒がセンター試験を受験します。それに備えるというわけです。
 ただ、ラグビーはウインタースポーツです。花園ラグビー場での全国大会は、12月に開催されます。3年生が引退するとなると、全国大会予選は1・2年生のチームで出場しなければならないわけです。もちろん、それで勝てるはずがありません。
 夏の引退は、その学校では通例になっているらしく、選手たちが全国大会に興味がないという事態も、彼らにとっては自然なことのようでした。
「主体的に行動しようとする」選手たちを支援える立場でいようと思った私でしたが、何かが違うような気がしてきました。でも、私には、どうしていいのか分かりませんでした。

スリーアローズ・ストーリー  2

 4月に初めて対面した選手は、2・3年生で11名。ラグビーは15人でするスポーツですから、1年生がたくさん入部してこないと試合にも出られない状況でした。しかも、ご存じの通り、ラグビーは危険も伴います。1ヶ月前まで中学3年生だった新入部員をいきなり試合に出すわけにもいきません。
 それで、転勤された前監督は、近隣の高校の選手と合同チームを作って、なんとか15人を保っているところでした。ところが、その高校の生徒はなかなか個性派揃いで、耳にピアスがぶら下がっていたり、赤茶色に染まった髪の毛がヘッドギアから出ていたりして、少なくともこれまで私が出会ってきたラグビー選手たちとは一線を画していました。
 しかし、べつだん戸惑いませんでした。前任校にはそんな生徒もたくさんいましたし、何より、どんな生徒にも熱意と誠意は伝わるのだという手応えを得ていたからです。
 それで私は、その初日の練習を、思いっきりやりました。選手たちの実力を確かめながら、基本的な動作を身体を使って伝えました。ところが、どうも、しっくりこないのです。なんというか、空回りしているような気がしてならなかったのです。
 練習が終わった後、キャプテンが私の所に歩み寄ってきました。彼はこう言ってきました。
「僕たちには僕たちのやり方がある。先生は昔ラグビーをしていたということだが、今のラグビーは進化している。だから、僕たちのやり方を変えるようなことはしないでほしい」
 私は「もちろん、それはわかっている」と応えつつも、内心はかなり動揺していました。去年までこのチームには専門的指導者がいなかったわけだから、選手たちからはきっと歓迎されるだろうという予想が大きく外れたことと、それから、新しい監督に対してそれほどきっぱりとものが言える高校生を、それ以前は知らなかったからです。

スリーアローズ・ストーリー  1

 昨日は私の執筆のスタイルを変えてくださった編集者の方の話を書きましたが、今日はどうしてペンネームが「スリーアローズ」なのか、ということを紹介させていただこうと思います。知人たちからもよく聞かれるので。
 アマチュアのライターである私ですが、これまでいろいろな名前を使ってきました。それが、このブログを主宰するということで、ちゃんとしたスタートを切るためにも、確固としたペンネームを決めようと思い立ったわけです。
 原稿用紙に執筆していた時には、「文豪」的な名前を使っていたのですが、横書きでブログに公開するというのもあってか、ペンネームに関する考え方も変わったのかもしれません。「スリーアローズ」に決定するのに、そんなに時間はかからなかったです。
 実はこの名前には、決して忘れることができないエピソードが関わってもいるのです。
 私が以前、高校の教師だったことは、以前このブログにも書きました。初めて赴任したのが、山間部の小さな学校で、全校生徒も70人という小規模校でした。その学校で5年間の勤務を終えた年の春、次の学校からのオファーがありました。
 私は高校、大学とラグビー選手として活動し、特に高校時代は花園ラグビー場で行われる全国大会に毎年のように出場する常連校でプレーしていました。そういう経歴があってか、国語教師の私でしたが、ラグビー部のある大規模校に転勤することになりました。
 新しい勤務校は、開校100年以上を誇る伝統校で、全校生徒も当時は700人近くいて、前任校とは何から何までが違っていました。数年ぶりにラグビージャージを新調し、スパイクを履き、グラウンドに立った日のことを今でも覚えています。
 これまで専門的指導者がいなかったその学校の選手たちにきっと受け容れられるだろうと思っていたのですが、実際は、その逆だったのです。 

芸術の秋?

 そもそもこの『静かな散歩道』というブログは、小説を掲載するために始めたものです。
 きっかけはある編集者の方との出会いでした。それまで原稿用紙に万年筆を使って執筆していた私にアドバイスをしてくださったのです。
 その方と赤坂の名店「一福」で食事をしたのは、今から3年前のことです。あれは晩秋で、赤坂の街のネオンは雨に濡れていました。「一福」はその方の行きつけらしく、思いの外なごやかな雰囲気で私たちは食事とお酒を楽しみました。「昔ながらのやり方で執筆するのも1つだけど、もっとたくさんの方に読んでいただくためには自分のブログを持った方がいいよ」とその方は教えてくださいました。
 横書きで執筆するなど考えられなかった私でしたが、まずは専門家の方の助言を聞き入れるべきだろうと考え、ネットワークに詳しい友達の力を借りてブログを開設し、『鎌倉物語』という小説を連載しました。
 それを皮切りに、今まで書き続けてきたわけですが、今現在は小説ではなく、こうしてエッセイを連載しています。まさか、小説をやめたわけではありません。次作の構想はできあがっているのですが、作品の中に込めたいことがたくさんありすぎて、焦点が定まらないでいるのです。それに、エッセイの執筆もなかなか楽しくて、のめり込んでいるところもあります。とはいえ、『静かな散歩道』なわけだから、このテーマに沿った小説をという想いは変わりません。
 今日は、久々に昼間はオフィスに帰ったので、天気もよかったし、昼休みに図書館まで歩いてみることにしました。今構想を描いている小説のディテールが歩きながら浮かんでくるかと期待したのです。
 図書館までの道の両側には街路樹が連なり、博物館や美術館も建ち並んでいます。その瀟洒な歩道を、踏みしめるように歩いていると、キンモクセイの香りが辺りを包み込んでいることに気がつきました。大きく息を吸い込むと、今度は木々の間からツクツクホウシの鳴き声が聞こえます。美術館では展覧会をしているのでしょう、拝観を終えた方々が穏やかな表情で出てこられました。
 新しい小説のディテールというよりは、新しい小説へのモチベーションが上がってきました。

台風一過

 みなさまの町は、雨風はいかがでしたか?

 私は今日も、ワゴン(荷物が減ってきたので、トラックからダウンサイジングしました!)に乗って、いろいろな土地を訪ねました。秋の青空が広がる地域もあれば、水たまりが目立つ地域もあります。
 昔からよく言われるように、秋の空は気まぐれですね。

 今日はどうしても書きたいことがあったのですが、仕事が終わりそうにないので、明日以降に書くことにします。

 世の中では哀しいニュースが流れています。
 ひょっとして、身の回りでつらい出来事が起きている方もいらっしゃるかもしれません。
 1人悩みを抱えている方もいらっしゃるでしょう。

 すべての問題は時が解決してくれる、今起きていることは後になって必ず自分の糧になる、そんなことを信じたいですね!

 また明日、お会いしましょう。

こんばんは

 台風は熱帯低気圧に変わったようですが、みなさまの街ではいかがでしたか?
「暑さ寒さも彼岸まで」とは言いますが、あっという間に彼岸も過ぎてしまいましたね。

 体調にはくれぐれもお気をつけください。

 明日も、またここでお会いできるのを楽しみにしています!

「仲間はずれ」について

 最近、新聞記事や自分の身の回りの出来事を見て、よく考えることがあります。
 ずいぶんと前に、入社試験の面接官をしたことがあるのですが、その評価項目の中に「第1印象」というのがありました。たしかに社会人として、このことは大事な要素であることは間違いありません。その時の上司は「第1印象はぶれないから」と言い切っていましたが、これまで自分が出会ってきた人を思い起こしてみても、多少の誤差はあるにせよ、第1印象でその後の付き合い方がある程度決まることは少なくなかったようです。
 これと似た言葉に、「先入観」というのがあります。この言葉を聞くといつも、中学生の時のクラスメイトのことを思い出します。
 私たちの時代は、ちょうどファミコンブームで、大抵の家にはこの最先端のゲーム機が置いてありました。当然、学校での話題もそのことで盛り上がるわけですが、クラスの中には、その輪の中に入らない人もいます。彼も、その1人でした。
 というのも、彼はゲームなんかには全くと言っていいほど興味を示さなかったのです。彼が好きだったのは、校庭に棲む虫や、田んぼの水の中にいる生物たちでした。その好きさ加減といえば、ちょっと病的なところがあり、休み時間になると学校の池の縁でじっとしゃがみ込んで動かなくなるし、授業中はいつもノートに昆虫や魚のイラストを描きまくっていました。机の横には小さな箱が置いてあったのですが、その中にはバッタやカマキリがいて、特に女の子たちからは当然、気持ち悪がられていました。
 ただ、私は、彼のことは決して嫌ではなかった。生き物のことを語る時の彼の目は輝いていて、その道の話となると、手品師が次々と花を出すかのように、よどみなく続きました。
 そんな彼は、現在国立大学理学部の准教授として、研究の傍ら学生の指導をしています。
 つまり、「第1印象」とは「自分の目でしっかりと見る」ことによって得られる情報で、逆に「先入観」とは「周りの噂や勝手な思い込み」によって得られる情報なのだと、最近特にそう思います。  

Tokyo ~part2~

 東京といえば、まず華やかできらびやかな大都会のイメージが浮かびますが、実際に足を踏み入れてみると、やはりビジネスの街といった印象が強いですね。私も、社会人になってから、学生の頃には感じなかった東京の厳しさを、痛いほど思い知らされることがありました。
 そんなことを思う時、過去に出会ったある人のことが頭に浮かびます。
 今から15年以上も前の話です。大学院を終了しても就職がなかった私が、やっとのことで教員試験の合格通知を受けた秋のことです。私は実家のある山口県から夜行バスに乗って東京に行こうとしていました。バスで上京するのは初めてのことで、出発前からドキドキしていたのを覚えています。
 前の席には、感じのよい中年の夫婦が座っていました。最初にどちらから話しかけたかは定かではありませんが、バスが出発してまもなく、私たちは自然とうち解けました。
 とにかくあの時の私は、自分の話を語りまくりました。自分は試験に合格するのに4年もかかってしまった、これからは地方の時代が来るからそのためにも教育の力は大きい、田舎は都会に比べて自由な空間が多い、そんなことを話した記憶があります。にもかかわらず、その夫婦はじつに丁寧に、しかも楽しそうな雰囲気で、私の話に耳を傾けてくださいました。今思えば、恥ずかしい限りです。
 翌朝、バスの車内で目が覚めた時には、絵に描いたような富士山が初秋の青空にくっきりとそびえていました。富士川のサービスエリアで朝食を取り、それから時間をかけて都心へと入っていきました。
 ちょうど田町辺りを通る時、奥さんが窓の外を指さして、「あれがうちのビルなんですよ」と、静かに言われました。そこには、三菱自動車の本社ビルの横に、茶色の高層ビルが建っていました。
「お兄ちゃんは、将来は熱血先生といった感じになるんでしょうけど、あなたのいいところをなくさないようにしてくださいね」と、ご主人はやさしく張りのある声で、最後にそう言ってくださいました。
 その後私たちは再会することはありませんが、文通をする仲は続いています。文章を書くのはもっぱら奥さんの役目ですが、その隣にいらっしゃるであろうご主人の姿を想像すると、胸があたたかくなってきます。

Tokyo

 昨日、田舎で活躍するラーメン屋の店主の話を書きましたが、私は、じつは、東京も大好きなのです。
 20代の頃は、この日本の首都に批判的なところがありました。たとえば、新宿南口に「タイムズスクエア」という名前のビルができたり、エンパイアステートビルそっくりの建物が現れたりと、どう考えてもアメリカナイズされているような気がして、悔しささえ感じていました。
 それが、20代も後半になって、少しずつ見方が変わってきました。たとえば私は、作家とゆかりのある場所を巡っていた時期があります。太宰治や三島由紀夫が自害した場所に行ったこともあるし、鎌倉に入って、自転車で夏目漱石や中原中也、源実朝などにゆかりのある地を訪ねたこともあります。鎌倉巡りが終わったら、横須賀線で東京に帰って、神保町あたりのショットバーで酒を飲む。そういう時間の使い方は、地方では決してできないことでした。
 そういえば、いつだったか、友達と2人で築地の場外市場に行って、昼食に海鮮丼を食べている時、狭いカウンターの隣の席に50代とおぼしき男女が腰を下ろしてきました。男性の方は、たしか白いポロシャツを着て、髪にサングラスを引っかけていました。店の大将から「社長」と呼ばれるあたり、どこかの社長さんなのでしょう。隣の女性は「ママ」と呼ばれていました。
 私と友達は、1,000円程度の「三陸丼」を食べていたのですが、その「社長」の前には、注文もしていないのに、次々と料理やお酒が運ばれてくるのです。いったいどうしたことだろうと横目で様子をうかがっていると、「社長」は突然私の方を向いて「おい、お兄ちゃん、これを食ってみな。うまいぞ」と言って、フグの白子とアンコウの肝を差し出しました。びっくりしましたが、「社長」の笑顔に圧されて、遠慮なくいただきました。海辺で育った私にとっては、どちらも珍しい食べ物ではなかったのですが、さすがに「おいしいです」と応えました。
 すると「社長」は「だろ、うまいよな」と威勢よく言い、新潟の地酒を注いでくれました。隣でママさんが「ちょっと、あんた、やめときなよ。お兄ちゃん、困ってんじゃないか」と諫めていました。

人柄のしみ込んだラーメン

 仕事が終わった後、久々に行きつけのラーメン屋に足を運びました。
 店主は独学でラーメンを学び、味を研究し、地価の安い私の地元に店を構え、毎日1時間かけて通勤しています。私の地元は古くから養鶏業が盛んで、最近では「6次産業」の流れもあり、ブランド鶏の飼育に力を注いでいるのですが、彼はその鶏を使ったラーメンに目をつけたというわけです。
 開店当時に初めてのれんをくぐった時から彼とは意気投合し、麺をゆでながらラーメンへの熱い思いを何度も語ってくれたものです。彼がたった1人で作り上げたという店内も、シンプルで清潔感が漂い、ただうまいラーメンをすするためだけの空間として、好感が持てます。
 今年から仕事が変わり、帰宅は深夜になるし、余暇もほとんどなくなってしまったために、すっかりご無沙汰していたのですが、丸坊主の店主は店に入る前に大きな声を出して歓迎してくれました。
 というのも、先日、地元で行われたジャズコンサートでたまたま店主と邂逅し、そこには地元の商売人やマスコミ関係者もいたのですが、そういう方たちに彼を紹介したところ、彼はとても喜んで、「縁」のありがたさを感じたと言っていました。その姿を見て、久々に彼のラーメンが食べたくなったのです。
 それにしても、彼のラーメンはとても独創的です。澄み切ったスープには地鶏のうまみが凝縮され、地元で作られた天然塩で味が引き締められてもいます。細めの麺のゆで方も絶妙で、スープがしっかりと絡みついてきます。いつもの通り、あっという間に完食してしまいました。
 手書きのメニューには、こんなことが書いてありました。
「当店のラーメンは化学調味料を一切使わずに、こだわり抜いた素材のうまみだけを最大限に引き出しています。ただおいしいだけではなく、食べていただいた皆様が元気になるようなラーメンになるように思いを込めて創りました」
 そういえば、開店当時の彼の目標は東京で勝負をかけることでしたが、今では店から少し離れた山間の村に家を建て、地元でこだわりのある店作りをしていきたいのだと、目を輝かせて語ってくれました。 

秋ですね~

 今日は金曜日。
 私の街は、静かな週末を迎えています。

 それにしても秋は憂愁を誘う季節でもあります。毎年思うことですが、ほんの数日前までは汗ばむほどだったのに、急に肌寒くなりますよね。それとともに、秋に咲く花があちこちでほころび始めます。

 学生時代、レストランのウエイターの他に、内装工事のアルバイトをしていたこともありますが、私の師匠とも言える方が仕事終わりにトラックを運転しながら、「俺は秋が好きやなぁ」としみじみとつぶやいていらしたのを昨日のことのように思い出します。
 その師匠が亡くなったというハガキが届いたのが7年前。
 時が流れるのは、無情とさえ思えるほどに早いですね。

 さて、本格的な秋になりましたが、みなさまんどのように過ごされますか?
 私は、久々に、釣りをしに秋の海に足を運んで、潮風に吹かれたいですね~ 

自分はいったいどこに向かっているのだろう?

 今の時刻は、18時31分。でも、この文章のアップロードは、夜の10時過ぎになるのでしょう。というのも、19時から会議を控えているのです。早く着いてしまったので、目の前にそびえる会議場の入った建物を見上げながら、駐車場に車を止めて、車内でこれを書いています。
 今日も昼過ぎまでトラックに乗って、イベントのPRに走り回っていたので、気持ちの切り替えが必要ですね。頭がボーッとして、思考回路が正常に働いていない状況です。それで、ミスドのドーナツでもかじろうと思って近くのスーパーマーケットに行ったのですが、店先の屋台で売られる回転焼の方に心が移ってしまい、それをほおばりました。粒あんのたっぷり入ったほかほかの回転焼は、期待以上にほっとさせてくれました。これで、会議も、何とか乗り切れそうです。
 会議は、イベントにかかわる予算とか人的配置とか、そういった細かい事務にかかわるものです。おそらく、これから私にも多くの仕事が与えられることでしょう。
 そういえば、昨夜でしたか、日記をひもといてみました。去年の今頃は季節の変わり目でぐったりしていたようです。仕事の方も一段落ついて、少しだらけ気味だったようです。
 去年と比べると、今はすべきことで八方ふさがりの状態です。おそらく、知らず知らずのうちに、いろいろな人に迷惑をかけていることでしょう。それが分かっていても、自分のことで精一杯の状態です。(ほんとうはそれではいけないのですけど・・・)
 大学生時代、フランス料理のレストランでウエイターをしていたことがあります。狭いお店でしたが、満席になった時の忙しさは、それはもう大変なものでした。ところが、お客さんが来ない、ヒマな時の方が、しんどく感じられました。そういう時に限って、時間が経たないのです。
 すべきことに押し潰されそうになっている時はたしかに追い詰められますが、逆に言えば、自分に与えられた仕事があるのは幸せだとも思います。そう言い聞かせながら、会議に臨んできます!

おろか者のやさしさ

 仕事の休憩時間に、コーヒーを飲みながらぼーっとしていると、ふっと何かを思い出すことがあります。
 今日は、10年前の職場の後輩が頭の中に入ってきました。彼は不器用さとひょうきんさを併せ持つ人間で、いつも他人に笑われたり、笑わせたりして、ただそこにいるだけで十分に目立つ男でした。その一方で、何事にも一生懸命で、与えられた仕事は手を抜きませんでした。しかも、これは注意深い人にしかわからなかったでしょうが、一見荒削りな感じの彼は、実は周りの人にずいぶんと気を遣っていました。
 私は、そんな彼があくせくと職場を動き回っている姿に尊敬の念を抱きながらも、この人はきっと疲れるだろうと、心配してもいました。実際、彼は季節の変わり目にはよく風邪をひいてダウンしました。そんな姿を見て、同情する人もいれば、陰口をたたく人もいました。
 一般的に、人間は2面性を持っているというのが私のとらえ方です。陽と陰、明と暗、動と静、そうやって両極の性質を併せ持つことでバランスを保たないと、うまく生きられないと思うのです。たとえば、人前ではとても元気な人は、気を許した親友の前ではたちまち寡黙になったりするのです。
 で、その後輩が、ある酒宴の席で、私に向かってこう漏らしたことがあります。「自分はどこへ行っても、年上の人からも年下の人からもばかにされてしまうんです」と。
 彼の眼は半分あきらめているようにも見えましたが、半分は本気でした。その時私の心には、過去にお世話になった中国人のカウンセラーの言葉が思い浮かびました。
「ほんとうに立派な人は、おろかに見える」
 その言葉を、私はそのまま彼に返しました。すると彼の瞳の色は、ぐっと黒くなったよう映りました。
 日本語を十分に理解しないカウンセラーがどんなつもりで「おろか」という言葉を使ったかは分かりません。ただ、「おろか」に見えるその後輩は、少なくとも私などには決して真似できない、とてつもなく大きな世界をもっているように思っていました。
 今日、コーヒーを飲みながら、おそらく彼は、今では堂々と生きているだろうと想像を巡らせました。

トラック野郎の夢

 今日からまた、トラックでのキャラバンの再開です。
 ただ、今日ばかりは昨日の「復興の森」の達成感からくる疲れが出て、朝から身体が重かったです。それでも、トラックの薄っぺらいシートに乗り、マニュアルのシフトを入れた瞬間、よし、がんばろうか! という気持ちが沸き上がってくるあたり、私もだいぶこの生活に慣れてきたのかもしれません。
 今日は、海辺の街を走りました。今回のトラックキャラバンで分かったのですが、海辺の街って、けっこう路地がまっすぐです。海岸線に沿ってすらりと道路が走り、家が建ち並び、その中心には必ずと言っていいほど商店があります。大規模な街になると、商店街となって人々が行き交うわけですが、私がこの2週間で巡った街はそんなに大きくはなく、したがって、細々とした人々の営みが感じられる路地が多かったような気がします。
 トラックに同乗している同僚にもよく話すのですが、私は、そんな《商店のある風景》が好きです。人々の生活の匂いが感じられ、町並みに味わいがあるように思います。
 でも、私が巡ってきた商店の多くは、シャッターが降りたり、建物が老朽化したりして、廃れかけていました。そんな古い商店街の中を走り抜ける時には独特の趣があります。錆びた看板、古いロゴマーク、人気のない通り、それらが一体となって、何かを語りかけようとしているのではないかと思ったりもします。
 ただ、私はそんな光景を見て、寂しく感じることもありません。多くの人々が都会になだれ込んでいる今、そんな光景はむしろ希少価値があるように思うからです。誰もが持っている物よりも、人が持っていない物を持っている方がレア度が上がるわけです。
 先週、広島や岩国を訪れた時にも感じたことですが、町の見た目は変わっても、そこに住んできた人々の魂は、風景に染みついているのだと信じ込んでいるところが私にはあります。
 だからこそ、いつか、このような路地に再び活気を取り戻し、《商店のある風景》を再生したいと遥かに野心を抱いています。そんなことを考えながら窓を開けると、海の香りが強烈に鼻をつきました。

こんな時代だからこそまっすぐに

 今日が「敬老の日」であることはみなさんご存じでしょうが、おそらく「スカウトの日」であることは、あまり知られていないでしょう。
 先月8月3日に、震災復興イベントして、全国植樹祭で拓いた「復興の森」の整備を、東北3県(岩手・宮城・福島)の青少年や海外からの参加者、それに一般参加の方々を交えて行う予定にしていたのですが、残念ながら台風の接近で、あえなく中止になってしまいました。
 特に東北の方々は東京駅まで来られていたにもかかわらず、そこからUターンしていただくことになり、イベントの担当者だった私も大きな心残りになっていました。
 それが、今回、日頃からお世話になっているボーイスカウトの指導者の方との雑談の中で、今日が全国的に「スカウトの日」であるということで、ならば、近隣で活動をしているスカウトたちに呼びかけて「復興の森」のリベンジをしようじゃないかという運びになったわけです。
 ボーイスカウトの方々って、すごく尊敬するところがあります。彼らは学校の勉強も部活もあるのに、こうやって休日には集結してくれる。指導者の方に至っては、ほとんどが仕事を持っていらっしゃるにもかかわらず、遠方からスカウトたちを引率されて、社会貢献をされている。そして、今日は、趣旨に賛同されたスカウト・指導者・保護者が、なんと200名も集まってくだいました!
 この光景をぜひマスコミにも取り上げてほしいと思い、各社に配布したわけですが、実際は地方紙が2社来てくださるにとどまりました。できればテレビカメラが入ってくれればと密かに思っていましたが、後で考えると、これでよかったのだと思います。おそらく、今日の想い出は、自らの手で「復興の森」を整備されたスカウトの方々の心にしっかりと刻まていくのだと思います。
 マスコミを意識しすぎていた自分を省みるとともに、いつも経済上の取引の世界にもまれ、そこでの駆け引きや段取りばかりに心を砕いていたことに気付かされました。本物の交流とは、お金に換算できるものではなく、「心」なのだということを思い出した気がします。秋空が最後までまぶしく感じられました。

Change the World♪

 今年から新しい職場に入って、イベント関係の仕事をするようになったことは何度もこのブログで紹介しましたが、今日は職場で出会った臨時職員の話をします。
 彼女は私よりもずっと若く、職場ではコピーを取ったり、書類を他の課へ届けたりするような、そんな仕事を担当していました。だからか普段は物静かで、正直あまり目立たない存在でした。
 ただ、ニューヨークで暮らしたことがあるということで英語はとても堪能で、私がイベントのステージ上で話すシナリオの英訳もしてくださったこともあります。それから、過去にライブハウスで歌を歌ったことがあったらしく、カラオケでは抜群の歌唱力で私たちをうっとりとさせてくれました。
 いつでしたか、昼食を終えた後、彼女と話すことがあって、ジャズの話を私が一方的に話したわけですが、彼女は興味深そうに、目を輝かせて相づちを打ってくれていました。彼女の方もかなり詳しいようでしたが、その時はそれ以上話が盛り上がることもありませんでした。
 残念なことに、彼女は6月で職場を退職することになりました。理由は「夢を追いかける」ということでしたが、私には、オフィスでの単調な事務仕事が合わなかったのだろうと映りました。
 それが、先日の送別会の折に、突然、ライブをするから来てほしいとパンフレットをもらいました。見ると、彼女は、本名とは別の名前で出ているではありませんか。しかも、ロンドンや上海ではジャズ部門のヒットチャートの1位を取ったことがあるらしく、日本でも既にメジャーデビューを果たしていました。しかも、共演するベース奏者は、これも驚くことに私の地元出身だったのですが、現在ニューヨークで活躍中の、新進気鋭のミュージシャンで、さらにドラムもピアノも、ジャズ界の巨匠と競演したことのある音楽家ばかりでした。
 そしてついさっき、海を一望するライブハウスで、満員の観客の中、彼女はスポットライトに照らされて、一流のジャズトリオの中で熱唱しました。アンコールが終わった後で、ファンからのサインに応じている姿を見るにつけ、ああ、この人は本気で夢に向かって一歩を踏み出す決意が固まったのだなと思いました。

こんばんは

今日は朝から晩まで炎天下にさらされ、心も体も真っ黒焦げになってしまいました…
日焼け止めクリームの匂いが染み付いている感じです。

今夜はクールダウンして、また明日、リスタート切りますね。

明日もこのブログでお会いしましょう!!

嵐の金曜日

 朝夕の冷え込みが感じられるようになりました。体調の管理には気をつけたいところですね。
 こうなると、そろそろクールビズも終わり、秋のいでたちの準備をする時期になりました。
 そういえば、先日、久々にベルトを購入しました。10年以上使い込んだポールスミスのベルトの金具が、よりによってイベントのステージ上で壊れてしまうというアクシデントに見舞われ、観客の方に目立たないように、マイクを持たない方の手で必死にズボンを持ちました。
 とても愛着のあったベルトだっただけに、これも何かの縁なのかもしれないと思ったりもします。
 で、今回新たに購入したのは、日本製のハンドメイドで、ダークブラウンとブルーブラックのものをそれぞれ手に入れました。まだ革が固めですが、おそらく使い込んでいくうちに柔らかくなって、色も深みを増してくることでしょう。
 クールビズのサマーパンツには、新しいベルトは光沢が強くていささか主張しすぎの感がありますが、これがスーツに通すと、きっとほどよくマッチするのでしょう。
 こんな些細なアイテムを新しくするだけで、気持ちも変わるような気がします。これまで苦しい時も楽しい時も一緒だったポールスミスのベルトに感謝しつつ、心機一転、リスタートを切るつもりで秋からの仕事に取り組みたいですね。

 今日は金曜日。
 みなさまはどんな週末をお過ごしですか?
 今年の秋が、いろんな意味において、平穏でありますように・・・
 明日また、このブログでお会いしましょう!

秋空に鎮魂歌

 今日は広島に入りました。
 昨日と同じく、さわやかな秋空に包まれていましたが、市内では自衛隊の車両がひっきりなしに行き交っていました。先日の大雨災害の復興活動が続けられていたのです。
 市街地に近づくにつれ、人がどんどん増え、平日というのに商店街には活気が感じられました。広島は独特のパワーに溢れた町だと思います。そういえば、この町から、日本の音楽界を支える多くのミュージシャンが輩出されています。矢沢永吉、浜田省吾、奥田民生、最近ではJUJUやParfumeなどがここから出ていると記憶しています。
 この町にみなぎるパワーが、偉大な音楽家たちの深奥に脈々と流れているのかもしれません。
 広島駅の近くにトラックを止めて周辺を歩いた時、広島カープのTシャツやユニフォームを着た人たちが目につきました。今年は首位争いに絡んでいるから、より盛り上がっているのでしょう。そういえば、小学生の時、広島市民球場で巨人戦を観戦したことがあります。その試合では、巨人のクロマティと原がアベックホームランを打ちましたが、すぐさま衣笠と長内がヒットで返し、ランスが逆転ホームランを打ちました。あの時の球場の盛り上がりは、いまだに心に染みついています。
 市民球場のすぐそばには原爆ドームと平和公園があります。あの時、試合の途中で球場を後にしたのですが、平和公園の方から球場を見上げると、ナイトゲームの照明がきわだって明るく、観客の興奮が町の空気を揺らしているようでした。
 今日久々に訪れた広島は、見た目こそ新しくなっていますが、人々のパワーは以前と変わっていないように思えて、なんだか勇気づけられました。
 70年前、この町は、一瞬にして焼け野原と化しました。そうしてたくさんの方々が命を落とされた。でも、その魂だけは、今なお大地に染みついているのではないか。帰りのトラックの中で、「広島風お好み焼き」ならぬサンドイッチをかじりながら、胸があたたかくなりました。

ラーメンと米軍基地

 最近では「秋バテ」というのがあるのだとか。夏の疲れや、気温の変化、そういうものがこの時期に一気に出るのだそうです。何年か前は、そんな言葉聞かなかったけどな~
「食欲の秋」「読書の秋」「スポーツの秋」・・・。秋には意欲が高まるイメージがあったのですが、やはり、この辺も異常気象の余波なのでしょうか?
 かく言う私も、今日は疲れがたまっている感じでした。だから「秋バテ」などという言葉に触れると、あぁ、しんどいのは自分だけじゃないんだなと思って、安心したりもします。
 さて、今日もトラックに乗っての大移動で、山口県の岩国市に入って、イベントのPRをしました。岩国は瀬戸内海に面した地方都市で、隣はもう広島県です。それにしても今日は、瀬戸内の温暖な気候をキャンパスに描いたようなすばらしい青空がどこまでも続き、トラックの高い座席からは、空の色を映した瀬戸内海がのっぺりと広がっていました。
 ただ、この岩国という町は、古くから米軍基地を抱え込んできたのだと、同乗者が教えてくれました。日によっては、軍用機が空の低いところを飛び、すさまじい轟音を立てるのだと。そう言われれば、「岩国基地」と書かれた標識も、道路の至る所で見られました。
 昼は、岩国駅前の中華そば屋さんで、ラーメンをいただきました。岩国駅は、駅舎も古く、日差しのふんだんに降り注ぐ駅前ロータリーも、人は疎らでした。そのお店は、ロータリーの端に、しっかりとのれんが掛けてありました。この辺では老舗らしく、店内は昭和を感じる雰囲気で、三角巾をしたおばちゃんがラーメンを運んでくれました。醤油ベースのスープの中には、ラーメンと言うよりはちゃんぽんに近い太めの麺が絡まり、豚の背脂が浮かんでいました。味わいはどこかなつかしさを誘い、疲れ気味の私の身体に染み渡ってゆくようでした。
 基地の町である岩国ですが、駅前の雰囲気は庶民的で、ぬくもりを感じさせてくれました。ラーメンを完食し、所々にシャッターの降りた商店街をトラックで駆け抜けながら、また来ようと思いました。

It’s Only A Paper Moon

 今年最後の「スーパームーン」に世の中が騒いでいる時、約300㎞のドライブを終えた私は、疲労を感じながら、コンビニエンスストアで缶ビールとナッツ、それから新聞を買いました。
 帰宅して、ビールを飲みながら紙面をめくると、昭和天皇の生涯が宮内庁によって記録された「昭和天皇実録」が大きく特集されていました。
『源氏物語』の読者である私は、平安時代における帝(=天皇)について書かれた古文を読む機会が多いために、天皇という言葉を聞いて、すぐには国家観に結びつくことはないですが、それでも昭和天皇だけは、特別な思い入れがあります。
 記事の中では、昭和天皇の生涯を数々の写真で回顧した紙面がありました。時に、写真は、文章には出せない迫力がありますよね。私はビールを飲む手を止めて、昭和天皇の写真に思わず見入ってしまいました。
 最も衝撃を受けたのは、天皇の幼少期の写真でした。子供用の装束に身を包んだ2歳頃の姿、父である大正天皇に手を引かれる様子、さらには学習院初等科の制服を着て相撲を取る皇太子時代の写真までありました。
 それらの写真を見て、まず思ったのは、天皇も死ぬのだということでした。
 昭和天皇は、戦前・戦中は「現人神(あらひとがみ)」として人々に崇められ、戦後は国家の「象徴」として、政治的発言力を失いました。おそらく、これほどまでに激動の人生を歩まれた孤独な天皇は、他にいないのではないかと思います。その天皇も、26年前に崩御されているわけです。
 私はその写真を見て、改めて、人は誰もみな死ぬのだという事実に飛躍してしまいました。当然、自分も死ぬ。だとすれば、今まさにこの瞬間、自分はどう生きるべきなのか、もっと本気で考えなければならないのではないか。そう思うと、心が焦りだしました。
 窓の外では、スーパームーンによって照らされた夜空に、うろこ雲の黒い影が広がっていました。

今宵は十五夜なりけり

月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころながめたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。

『源氏物語』には、しばしば月が描かれますが、おそらくその中でも特によく知られる場面です。
 若さゆえに、禁断の恋にブレーキをかけることができなかった光源氏。彼は時の権力者から罰を受けるよりも前に、自ら異境の地である須磨へと下ります。
 須磨は、今で言う神戸市須磨区。快速電車を使えば京都まで2時間足らずの距離ですが、平安時代はそうもいきません。千里にも二千里にも遠く感じられたようです。
 冒頭の古文は、須磨に退去した光源氏が、十五夜の夜にふと月を見上げて都を追慕する場面です。
【今宵は十五夜なりけり】  
「けり」は、文法的に言えば、「気付き」を表します。「そういえば、今夜は十五夜だったなあ」と光源氏はふと気付くわけです。つまり、その時彼は別のことに心を塞いでいた。すなわち、愛する藤壺のことを考えていたのです。藤壺とは、光源氏の義母で、密通してしまう女性です。若い光源氏にとって、一度抱いた恋人の記憶は、肌の内側にはっきりと焼きついていたことでしょう。
【月の顔のみまもられたまふ】
「月の顔」とは、文字通り月の表面です。「まもられたまふ」とは「まもる」という動詞に尊敬語がついたものです。「まもる」とは、じっと見つめること。須磨で侘び住まいをしている光源氏は、月の表面をじっと見つめながら、都での華やかな日々を思い出し、心から愛する藤壺のことを思慕するあまり、胸を痛めるのです。そうして彼は、「月を見ている間だけは、心が慰められるものだ」という思いを和歌に詠みます。

見るほどぞ しばしなぐさむ めぐりあはん 月の都は 遥かなれども

秋の日焼け

 昨日とはうって変わって、今日は運動会日和でしたね。
 外へ出て、英気を養われた方もけっこういらっしゃったのではないでしょうか。
 私はと言いますと、今日は海辺の町で仕事があったということで、それが終わった後、久々に釣りをしました! 小さい頃から自然の中で育った私は、今でも海に癒されます。しかし、最近はなかなか行くことができなくなっていました。
 魚の釣り方にもいろいろありますが、私の場合は、撒き餌で小魚を集めておいて、その深いところにいる大物を狙うというパターンと、岩場の中に潜む根魚を狙うというパターンで釣ります。たぶん、最もシンプルなやり方でしょう。ただ、この目の前の魚との駆け引きが、けっこうドキドキしたりするんです。
 で、今日の釣果はと言うと、良型のグレが3匹、カサゴが2匹、大型のキスが3匹、カマスが2匹、それに小アジが50匹といったところで、大漁と言っていいでしょう。本格的に大物を狙われる太公望の方からすると地味かもしれませんが、海を眺めながら、潮風に当たりながら釣りを楽しむ私にとっては、魚が釣れるだけで満足なのです。
 私は、釣った魚はだいたい海辺でさばくようにしています。それで、漁港を去る頃には、もう日は暮れてしまっていました。それでも、帰宅して、釣った魚を調理しました。これも私の流儀ですが、釣った魚は基本的にはきちんと食べるようにしています。
 釣りをするようになってから、命をいただいているという感覚がとても強くなりました。自分が釣らなかったら、この魚はもっと大きくなって自由に海を泳ぐことができただろうと思うと、申し訳ない気もします。でも、太古の昔から、人間は狩猟採集して命をつないできたわけです。だから、自分で釣った魚をいただくということに対して、必要以上の罪悪感を抱くこともないのだとも思います。
 ありがたく、おいしくいただいた魚は、なんだが、自分の身体の中に生きているように感じられます。彼らから、パワーをもらうようにさえ思うのです。

こんばんは

今夜も『静かな散歩道』にご同行くださいまして、ありがとうございます。
それにしても今日は変な天気でした。
突然の嵐がやって来たりもして、せっかくの休日にやろうと思って楽しみにしていたことができなかったりもしました。
やはり「思い通りにならないのが人生だ」と思いました。

みなさまの町はいかがでしたか!?

昨日実は誕生日だったのですが、しかもこれまでで一番静かな誕生日だったのですが、なんと言うのでしょう、自分のどこかで、なにかが変わったような気がします。

誕生日にはそんな気になるのですかね…

これからもこのブログはしっかりと続けていきます!

みなさま、引き続きよろしくお願いいたします。

昨日のつづきです・・・

 今日も2㌧トラックを運転して、イベント関係の冊子をひたすら配布しました。1週間で、県内のすべての高校を訪問するというスケジュールなので、なかなかハードなものです。
 とはいえ、学生時代は内装会社のアルバイトを長くしていたこともあって、トラックに乗って様々な現場に入ることは、しんどいというよりは、なつかしい感じですね。
 ハンドルを握っている間は、今日は昨日よりも天気がよかったこともあって、いろんなことを考える機会にもなりました。
『キラキラ』の中で主人公の奈月が「思い通りにならないようで、じつは思い通りになっているのが人生」と何度も言いますが、あれは、あらかじめ用意していた言葉ではなくて、書き進めているうちに流れの中で出てきた言葉です。にもかかわらず、妙に説得力があったりします。
 幼い頃、私には夢があり、高校・大学時代にも、人生のビジョンを持っていたつもりです。でも、その中には、さすがにトラックを運転してイベントのPRをしまくるというオプションはなかったです。 
 もちろん、今の生活が、「最終到達点」だとは決して思いません。生きている以上、たとえそれが何歳であろうとも、すべては「途中経過」だと思っています。とは言うものの、少年の頃や、学生の頃のように悠長に構えるわけにもいきません。
 だとすれば、自分はいったいどこへ向かって走っているのだろうと、トラックを走らせながら自問自答してみました。でも、もちろん答えなど見えない。たぶん、答えが見えないところに、前を向いて生きようとすることの醍醐味があるのでしょう。
 ただ、尾崎豊が歌ったように(あるいは安部公房が文章を通じて表現したように)、最終的には自分の手で「自由」をつかみたい。それが、時間的な自由なのか、それとも心の自由なのかははっきりしないですが、とにかく「自由」をつかみとることが「最終到達点」であれば、幸せだと思いました。
 おかげで今日は、何度もエンストしてしまいました・・・

行儀よくまじめなんてできやしなかった

 大学時代、毎日のようにカラオケに行っていた時期がありました。ラグビー部の連中のノリがよくて、連日連夜、歌って踊りました。カラオケ店のソファを壊して弁償させられたことさえあります。
 それが、いつからでしょうか、ぱったりと行かなくなってしまいました。特にここ数年は歌謡曲がリリースされては消えるようで、そういう風潮に乗りきれなくなったのかもしれません。あるいは、大学時代は自分の歌いたい曲をただ歌っていたのですが、社会人になってからは、他の人の知っている曲を歌おうと思って、何となく気を遣うようになっていたのかもしれません。
 ところが、今年の職場のメンバーはカラオケをこよなく愛する方々が揃っています。中には本物の歌手もいて(その人の曲はカラオケのリストにも入っています!)、10数年ぶりに、2次会はカラオケというような空気が今の職場にはあります。
 とはいえ、学生の頃のようにマイクを持ってガンガンに歌うのではなく、他の方々が熱唱しているのをなんとなしに眺めているといったところです。それはそれで、疲れないですね。
 でも、必ず1度はマイクが回ってくるものです。昨日は、同僚が勝手に尾崎豊の『卒業』を予約して、マイクを渡されました。
 私が過去に高校教師をしていたということを以前ここに書きましたが、授業で『卒業』の歌詞を生徒と一緒に読み込んだことがあります。「尾崎豊は、自由を手にしたのか?」というタイトルの授業でした。歌詞の中の「仕組まれた自由」「本当の自由」「あがいた日々も終わる」「これからは何が俺を縛り付けるだろう」そんな言葉に注目して、授業を進めました。
 あの時の教室の光景を思い出しながら、私は初めて『卒業』を歌ったわけです。すると、ある熱いものがこみ上げてくるのを感じました。あの時は生徒に歌詞の世界を伝えたいという一心でしたが、歌っていると、何だか、この歌は今の自分の心を代弁しているような気がしてきました。
 私は何かから卒業し、そして、次の自由を求め続けるのだと思いました。30代最後の夜でした。

こんばんは

今夜も『静かな散歩道』にご同行くださいましてありがとうございます!!

つらいこともあれば、いいこともある。
いや、つらいことがあったぶんだけ、いいことが待っているのかもしれない。

雨が降る夜中の街を1人歩きながら、そんなことを考えています…


また明日、この場所でお会いしましょう。

ふと思うこと

『ノルウェイの森』の映画化を手がけた、ベトナム出身のトラン・アン・ユン監督が、原作者の村上春樹氏を直接訪ねた時の話が、何年か前の『朝日新聞』に載っていました。村上氏がマラソンランナーであるということはわりと知られているようですが、その時の待ち合わせ場所もトレーニング・ジムで、村上氏はルームランナーの上を走っていたようです。
 その時、村上氏は、ユン監督に「いい小説はゆとりがないと書けない」というようなことを語っていましたが、その言葉が、私の心に今でも引っかかっています。
 たしかに、何でもそうですが、いい仕事をしようと思えば、ゆとりが必要なのでしょう。逆に、村上春樹氏のような大作家になると、執筆に専念できる環境が与えられるわけですから、小説を書くということに関しては、時間的なゆとりに恵まれているのかもしれません。
 ただ、何かの「夢」を追いかけるのに、そのことだけに専念できる人がどれほどいるかということです。たとえば学生には時間があるでしょうが、その頃から何か1つのことに集中して取り組む人も、なかなかいないのではないでしょうか。もっとも、「天才」とは、なかなかいない、ごくごく少数の人たちのことをいうのでしょうけど。
 いずれにせよ、何かに本気で取り組もうとする時、潤沢に時間が与えられているという人は決して多くはないはずです。
 去年でしたか、知人が、英語の諺を1つ教えてくれました。「最も偉大な作家とは、書き続けた素人である」と。(彼女は英語で言ってくれたのですが、英文を正確に覚えていません・・・)
 いや、それは、ひょっとして、「天才ではない」人たちへの、何かの慰めかもしれない。それでも私は、その言葉に、ある広がりを感じたのもまた事実です。
 太宰治は、初期の小説の中で(たしか『晩年』という作品だったように思いますが・・・)、一流の芸術作品というものにはどこか素人臭さが感じられるものだ、というような文章を記していたのを、ふと思い出しました。

恋人たちの夏

 連日このブログで、「曇りの日が多く雨ばかり降っている」と嘆いてしまうほど、今年の夏はずっとどんよりしていましたね。カーペンターズも「雨の日と月曜日は嫌い・・・」と切なく歌ったように、雨が降るとちょっとしたメランコリーになってしまいます。
 ところで、平安時代の美女として有名な小野小町は、百人一首にも載せられているこんな和歌を詠みました。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

「私が恋に悩んでいる長い間に、桜の花の色も、それから私の容姿も、すっかり色褪せてしまった」という意味の和歌です。ここに出てくる「ながめ」には「眺め」と「長雨」の2つの意味が掛けられているようです。
 とりわけ平安時代の女性には、長雨の季節は外出もままならないために、家の中に引きこもって、恋心を募らせる時間が長くなったのでしょう。窓の外に降り続く「長雨」をぼんやりと「眺め」ながら、恋人に会えないつらさを思ってはため息をつき、その分恋心を膨らませてゆく。彼女たちの物憂げな横顔が目に浮かぶようです。
 ですから、彼女たちにとっては、五月雨の時期(今の梅雨の時期)と、秋雨の時期は、つらい恋にじっと耐える時間だったわけです。特に、男性が好きな女性の家を訪れるという形で恋愛を成就していた当時においては、女性はひたすら待つことを強いられたわけですが、その分、愛する人が訪ねてくれた時のうれしさは、また格別だったはずです。
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

最新の文章
リンク
みなさまの声
カレンダー
08 | 2014/09 | 10
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
目次
月別アーカイブ
検索フォーム
QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。