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汝の味方を愛せよ

 この人なら自分のことを分かってくれると信じていた人から、つらい言葉が投げかけられた時ほど心が傷つくことはありません。
 たいていの場合、そういう言葉は予期せぬタイミングでやってくるものです。たとえば何気ないメールのやりとりの中で、いきなり起こったりします。
 いわゆる不意打ちです。
 ラグビーの指導をしていた頃、安全講習会で「不意打ちで起こる怪我の方が重症化しやすい」と言われました。人間は怪我を予測して危ないと思った瞬間に防御態勢に入るようです。その分、怪我のダメージを低減するのだと。
 この人は自分を傷つけないだろうと高をくくっている時につらい言葉を言われると、無防備な状態で怪我をするのと同じことが起こるのです。
 そういう意味で、絶対に自分を傷つけることのない「味方」がいる人は、本当に幸せだと思います。きっと人間が生きる喜びとは、そうやって他者と深く共感することなのです。
 だとすれば、「味方」だと思っている人こそ、丁寧に、大事に接する必要があると思います。
「味方」とは、何もしなくてもそこにいてくれるものではなく、互いに思いやることによって、つながり続けるものではないかと。
 そう考えると、「敵」も「味方」も、大差はないのかなと思ったりもします。
 人間関係とは、じつに難しいものですね・・・ 
 明日は月曜日。月も変わり、衣更えの季節です。
 心機一転、さわやかな気持ちで外に出たいですね!
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浦島太郎のつぶやき

 それにしても、めまぐるしい1日でした。
 朝からずっと動きっぱなしで、この時間になってようやく自分のデスクに付くことが出来るという次第です。
 すべきことがあるというのは、悪くないと思います。嫌なことを考えるのは、たいていの場合、すべきことがないヒマな時間です。
 常に動き回っている人は、すべきことから解放される瞬間を求めるけど、それはあくまで「息抜き」ということであって、やはり人生において最も恐ろしいのは、ヒマな時間だと私は思います。
 とはいえ、常にすべきことがあるという充実した時間を送っている人が気をつけなければならないのは、そういう時間は、無自覚に、あっという間に過ぎてしまうということです。
 何かに夢中になっている時、時間というものはあっという間に過ぎるのです。 
 香月泰男という画家は「一瞬一生」という言葉を残しました。
 一生が一瞬のように思える瞬間がある、逆に、一瞬に一生をかける瞬間もある、という意味のようです。時間に流されることなく、常に自分自身と向き合った画家だからこその言葉ですね。
 香月泰男は、1974年にこの世を去っています。今を生きる私たちは、少なくとも、たった1度きりの人生、あれよあれよという間に終えたくはないですね。 

 私の町は、今夜は雨模様です。
 その分、遠くで鳴く蛙の声だけは、元気が良いようです。

ことだまについて

 昨日もラジオに出演しました。
 火曜日はAMだったのですが、昨日は初のFM。大のFMファンである私にとっては、けっこうドキドキな体験でした。
 出演したのは出張で外出する時に耳にする昼のプログラムで、パーソナリティの声も馴染みのものでした。前回のAMのスタジオは、一般客も見られるように広く開放的なしつらえでしたが、昨日は聴力検査室のような分厚い扉の先の、閉ざされたスタジオでした。
 曲の間にスタジオ入りして、パーソナリティと握手を交わしました。実は、この方とは以前イベントで一緒に仕事をしたことがあって、すぐに打ち解けることができました。
 私がジョークを言うと、声を上げて笑ってくださり、向こうの方からもいろいろと質問してきました。教師時代は何の教科を教えていたのかとか、共通の知人であるミュージシャンの話、とにかく、本番前のわずかな時間にすっかりと楽しい気分になっていました。
 かくして、本番がはじまりました。まず、パーソナリティがゲストである私の紹介を簡単にした後で、「体育の先生ですか?」といきなりアドリブの質問を振ってきました。
 思わず私は「こ、国語です」と返しましたが、このやり取りでだいぶリラックスできました。私がシナリオを読む間も、パーソナリティの方はずっとこっちを見ていて、相槌を打ってくれました。そのさりげない配慮が、和やかな雰囲気を高め、結果的に滑らかなしゃべりにつながるように思いました。
 あまりにリラックスしすぎて、途中何度か噛んでしまいましたが、決められた文章をただ読むだけという感じにはなりませんでした。
 自分の言葉を使うことの大切さを一昨日書きましたが、特に私のようなアマチュアには、小手先のテクニックではなく、本心から出る言葉こそが、真実なのだと思いました。

宇宙の真ん中で

 今日はいつもよりも早めに仕事が終わったので、帰宅してすぐ、ランニングをしました。
 疲労感がありましたが、これはたぶん精神的な疲労だろうと思い、汗をかくことで発散できると踏んだわけです。
 夜の9時を過ぎていたので辺りは暗く、夜風が心地よく吹いていました。あまり負荷をかけるのもどうかと思い、いつものコースを少しだけショートカットして走りました。身体の方は気持ちよく動いてくれて、いくぶんか心が晴れました。
 走り終えた後で、クールダウンのウォーキングをしていると、親父が入院している病院が見えました。親父も1か月以上も病院生活をしていることになります。そういえば最近は仕事が遅くなるので、週刊誌やパンを持っていくことも減ってしまいました。
 そんなことを考えながら病室の明かりを眺めていると、目の前をホタルの光がゆらゆらと舞い上がってゆきました。その小さな、それでいてしっかりとした明かりは、高いところまで行った後、どこかへ消えていきました。
 光の跡を追っていると、空の高い所に月が出ていることに気が付きました。それまで20分以上走っていたのに、月の存在には気づかなかったのが意外に思われました。
 月の周りには、変わった形状の雲がありました。千切れ雲が、均等に、空一面に並んでいて、月の光に照らされることによって、1枚1枚の雲の輪郭が金色に縁どられていました。まるで、壮大な切り絵のようでもありました。
 それは不思議な光景でした。空が低く感じられたのです。背伸びをすれば、雲に届くんじゃないかと思うくらいに、低い空でした。それでためしに、手を伸ばしてみました。しかし、あと少しだけ、届きませんでした。
 ふっと息を吐いた時、病室の明かりが再び目に入りました。ホタルの光は完全に消えていました。

こんばんは

 いよいよ暑くなってきましたね。
 今日は、さすがにフラフラになってしまいました。

 梅雨の前のこの時期に、しっかりと日差しを浴びておきたいところです。

 明日もこのブログでお会いしましょう!
 

言葉はだれのもの?

 今日は久々にラジオ出演でした。
 今の仕事をしてから、3回目のラジオです。初めての出演の時はかなり緊張して、国語の教科書を棒読みしているようでしたが、さすがに3回目ともなると、パーソナリティーの方やスタッフの方々とも打ち解けることができて、だいぶリラックスして話せるようになります。
 皆さんご存知かもしれませんが、ラジオにしろテレビにしろ、いかにも対談をしているようであっても、実際はシナリオが用意されています。ただ、ここからが難しいのですが、そのシナリオをどうアレンジして、どう話すかということに、コツがいるのです。
 たとえば、シナリオから脱線してしまうと相手に迷惑をかけてしまう、とはいえ、そのまま読んでも味気ない。
 そこで大切なのは、意外にも語尾だったりします。
「みなさん、どうぞ、お見逃しなく」という台詞でも「みなさんに、ぜひ見ていただきたいと思いますね」という、自分にとって言いやすい語尾に変えるだけで、自分の言葉になります。
 言葉とは、まさに生き物ですね。全く同じ言葉でも、扱い方ひとつで、命が吹き込まれる。人が驚くようないいことを言おうとするのも大事かもしれませんが、ありふれた言葉でも自分の心から出たものならば、たちまち輝くわけです。
 そう考えると、プロのパーソナリティの方はさすがです。シナリオの中の平板な言葉をさりげなくアレンジするだけで、自分のものにしてしまう。
 どんな言葉を話すかということよりも、どれほど自分の言葉で話せるか、ということが、ラジオの世界では大切なようです。

どうして恋愛は美しいのか?

 勝負の世界は、たしかに厳しいですね。
「スポーツは筋書きのないドラマ」であり「勝負は時の運」という考え方もあります。
 ただ、たいていの場合、実力差がそのまま勝敗に現れます。たとえば、ラグビーにはどんでん返しがないといわれます。体の大きさ、足の速さ、組織力、そういうものが上回っているチームがたしかに強いです。
 卓球など、道具を使うスポーツもそうかもしれません。幼稚園からやっている選手と、高校に入ってから始めた選手では、差があって当然です。
 どのスポーツでも練習量や恵まれた環境などにより実力をつけた者が勝つことが多く、「勝負は時の運」的なことは、残念ながら少ないと言わざるをえません。プロ野球の野村克也監督も「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」と言っています。
 ならば、何のためにスポーツをするのでしょう? たとえば、高校野球や高校サッカーでも最後まで勝ち続けて全国制覇する学校は1校だけです。つまり、残りの数千校は「敗者」となるわけです。
 私は、特にアマチュアスポーツにおいては、勝つことは便宜上の目標にすぎないと考えます。そこを目指して必死に練習しても、負けることだって当然ある。しかし、勝つことがただの目標であるならば、それを達成できなくとも、落ち込む必要はありません。
 勝ち負けは最後には「想い出」に変わるというのが私の経験則です。いくら悔しい負けでも、10年経てば傷は癒える。そういう意味では失恋の痛手とよく似ています。
 では、スポーツによって何が残るか、それは、勝つために必死に努力したそのプロセスであり、その過程で芽生えた燃える心だと思います。それらは自らの血となり骨となって、一生涯、生きるための誇りであり続けてくれるでしょう。

ホテルの光

 昨夜は風があったので、裏庭の家庭菜園の様子を見に行くと、暗闇に何かが光っているではありませんか。まさかと思って近づくと、ホタルでした!
 辺りには、雨上がりの庭に小さな光が3つ4つ、宙を舞っていました。それにしても、庭でホタルが見られるなんて、感激です! 
 ところで、ホタルに関連して、ホテルの話。
 今日の夕方、いつものランニングコースの中で、遠くに海が一望できる大好きなスポットがあるのですが、その風景の真ん中に、ホテルの明かりが照らし出されているのが見えました。ホテルといっても、いわゆるラブホテルです。
 おととしでしたか、アメリカからいとこ一家が遊びに来た時、小学生のハーフの女の子が、あのホテルを見てこんなことを言いました。
「なんてきれいなホテル。海のすぐそばにあるんだから、きっと見晴らしがいいだろうなあ、私も泊まってみたいなあ」
 あの時もちょうど今日と同じ夕暮れ時で、ホテルのイルカのロゴマークが、夕日に向かって妖艶に映えていました。
「この近くに住んでる人はいいなあ、いつでもホテルに泊まることが出来るから」とも。
 ニューヨークにはラブホテルはないの? などと聞くことができるはずもなく、ただただ黙っておくことしかできませんでした。
 もちろん、笑い話といえばそれまでなのですが、子供の無邪気さというか、そういうものに対してほほえましく思うと同時に、この子が大人になっていくうちに、いつかはラブホテルのことを理解することを思うと、なんとも言えない気分にもなりました。
 ホタルの光とホテルの光。たった1字違いですが、趣はかなり異なります。

そよ風の誘惑

 いい季節ですね~。
 特に、朝がさわやかです。青い空と新緑のコントラスト、少しだけひんやりとした風。
 この時期ばかりは、毎朝約1時間半の通勤ドライブも、ちょっとしたカフェになります。コーヒーを飲みながらカーラジオを聞く。ビージーズやオリビア・ニュートン=ジョンの曲が流れたりすると、ますます気分がよくなります。
 マグカップの中のコーヒーは、挽き立ての豆をペーパードリップで抽出したものです。深煎りの豆をさらに濃いめにドリップしたものがお気に入りです。ほどよい苦みが頭の中をたちまちクリアにしてくれます。
 少し話が変わりますが、コーヒーって、かなり手間のかかる飲み物ですよね。最初にこの飲み方を思いついた人は、偉大です。というより、長い間にわたる、多くの人々による試行錯誤を経て、豆のままをかじるよりも、煎ってドリップした方がうまいという結論に辿りいついたのでしょう。そう考えると、私たちはずいぶんと楽をさせてもらっています。
 何でも、初めてのことには勇気がいります。バンコクの友達が、以前、タコの刺身を口に入れるまでには、かなりの抵抗があったと話していましたが、タコに限らず、私たちの祖先はありとあらゆるものを「試食」してきたはずです。現在、私たちが食べられるものと食べられないものとが区別できているのも、祖先のお陰の上に成り立っているわけです。
 たとえば歴史の世界をイメージする時、私たちはまず、教科書や文献などの記録を手がかりにしますが、じつは、記録として残っているものではなく、長い間の風習や言い伝えとして、今なお語り継がれていることがけっこうあるのではないかと想像します。私たちは、過去に生きた方々の支えによって、今を楽に生きているのです。
 コーヒーを味わっていると、ありがたみがこみあげてきました。

こんばんは

 とりあえず、1週間が終わりました。
 明日仕事がある人もいらっしゃるとは思いますが、何はともあれ今日は金曜日、週末です。
 1週間には、リズムがあるように思います。
 休み明けで気持ちの切り替えが必要な月曜日、仕事がはかどる火曜日、疲れがでてくる水・木曜日、そうしてラストスパート的な金曜日。土日が休日ならば、金曜日はまさにゴールデンな時間となりますね。
 個人的なことを言いますと、今日で大きな仕事が1つ終わりました。
 それで、思わずプレミアムな麦焼酎と、天然水で作った炭酸水を買って帰りました。そうして、さっそく4対6の割合でハイボールを作りました。おつまみはコンビニのホタテ貝ひも。
 やはり、いい素材で作ったハイボールは、素敵な味わいがあります。
 お酒を飲みながら、1週間の余韻に浸っています。

 あなたにとって、くつろぎの時間が過ごせますように・・・

虹色の絵

 先日、画家の友達と飲む機会がありました。
 彼は高校時代からマンガ家を志していましたが、上京してプロのアシスタントをしているうちに人脈が広がり、画家を目指すようになったというわけです。
 今は東京を中心に気鋭の仲間たちと展覧会を開いていますが、昼はラーメン屋で、夜は警備会社でアルバイトをしながらの生活を送っています。
 さすがに高校時代と比べると、表情に人生が刻まれてはいるものの、目標を持っている人間らしく、瞳は深く輝いていました。
「これまでは、絵が売れることだけを考えて、客を意識して描いてたんだけど、今は自分のために描いてるよ。それじゃ、ほんとはいけないんだけどね」と彼は、ハイボールを飲みながらつぶやきました。
「本気で絵を売ろうと思ったら、ちゃんと市場調査をして、確実に需要があるものを作らなければならない。完全に商売だね。それが嫌なら、ガウディみたいに大金持ちのパトロンでもつかないとやっていけない。絵で成功することは、宝くじが当たるようなもんだ」
 彼は、苦笑いを浮かべてそう言いました。
「ただ、自分のために描くようになってから、気づいたこともある。肖像画でも風景画でも目の前にある対象を描いてきたけど、実は、絵の中には未来も含まれてるんじゃないかって思う」
 その言葉は、不思議な響きを持って胸に入ってきました。
 今の自分は、当然過去の自分の積み重ねの上に生きている。しかし、同時に、未来の自分も含んでいる。今、ここで起こること、うれしいことも哀しいことも、すべて未来の色に染まっている。当たり前のようで、新鮮な発想でした。

ヤマアラシのジレンマ

 女は1度関係を結ぶと、それまでどうでもよかった男を好きになる傾向がある、というのはエッセイストの倉田真由美さんの見解ですが、たしかに『源氏物語』なんかを読み進めているとそうかもしれないと思う節はたくさんあります。
 男女の関係に限らず、お互いの「距離」って、大切ですよね。
 そういえば、ある高校の校長先生が、全校集会のときに、「ヤマアラシのジレンマ」という話をされたことがあります。
 ヤマアラシが寒さに震えている時、彼らは互いを温め合おうと思って身を近づけたが、彼らの体には無数の棘がある。近づけば近づくほど、互いを傷つけてしまうことになる。それでも離れてしまえば寒くてたまらない。
 そこで彼らは、近づいたり離れたりの試行錯誤を繰り返し、その結果、ついに互いを傷つけずに温め合うことのできる距離を発見する。
 これはドイツの哲学者ショーペンハウアーの寓話です。
 孤独を抱えた人間は、だれかのぬくもりがほしくなる。しかし、あまりに距離が近づきすぎるとすぐにトラブルになってしまう。人間は、自分が可愛くもあるのです。
 ショーペンハウアーは、えてして心にぬくもりをもっている人間が人との関わりから遠ざかってしまうのは、めんどうをかけたりかけられたくないからだとも言っています。皮肉な現実です。
 孤独な自分と共感できる人がいるというのは、ほんとうに幸せなことです。きっと、人は1人では生きていけないのです。ただ、そのことに甘んじて近づきすぎると、互いに傷つけあい、裏切られたような気分になる。
 よく「つかず離れずの関係」と言いますが、ほのかなぬくもりが感じられる適度な距離を探し出すことの、なんと難しいことか・・・

音楽の深味

 JFNで夜7時からオンエアされる「A.O.R」に癒されているという話題を以前書いたことがありました。昨日はひどい雨の中、車を運転している時に、このプログラムがラジオから流れてきました。8時からの特集は、ホール&オーツでした。
 話は2人の出会いから始まりました。ダリル・ホールがまだアマチュアだった頃、学園祭のステージに上がる直前にヒート・アップした大学生たちが乱闘になり、危険を感じて外へ逃げた時に出くわしたのが、同じく逃げ出していたジョン・オーツだったこと。
 ジョン・オーツがナンパをして、一度は逃げられた女性が、後にこのデュオの作詞を手掛けるサラ・アレンだったということや、サラの妹であるジャンナ・アレンがギターで弾いた曲を、リビングのソファに座っていたダリル・ホールが聞いて、インスピレーションを受けたのが、最大のヒット曲である『Kiss on my list』だったということ、その後、彼らはスーパースターへの道を駆け上がってゆくものの、ダリル・ホールが慢心に陥り、プロデューサーからは見放され、ホール&オーツは解散したこと。ジャンナ・アレンは夭逝し、サラ・アレンが悲しみに暮れているところに、ダリル・ホールはすべての財産を復帰のために充て、帰ってきたこと。そうして、その間、ジョン・オーツはじっと待ち続け、再びダリル・ホールから一歩下がった所でギターを弾くようになったこと。
 これまで全く知らなかったドラマを聞くと、彼らの音楽がまた違う響きで胸に飛び込んできました。彼らに限らず、人が生きる以上そこには必ず人生の浮沈があり、喜怒哀楽がある、つまりその人だけのドラマがあるということに、改めて気づかされました。
 パーソナリティのユキ・ラインハートは、最後にこう言いました。ホール&オーツは、あの頃よりも白髪と体重が増えたけど、ホールのボーカルには円熟味が加わり、オーツのコーラスにも存在感が出てきた。彼らは今もなお、世界中の観客を魅了させ続けている。 

オーガニックなひととき その2

 さて、土を耕す作業が終わったら、次は畑をかまぼこ型に成形します。これがじつはけっこう重要だったりします。なぜなら、土の上から、マルチという黒いビニールシートをかぶせるからです。
 この手間を省くと、後で痛い目に遭います。梅雨が終わり、本格的な夏がやってくる頃、野菜たちはぐんと成長します。トマトやキュウリは、私の身長よりも高く伸びますが、それと同時に、雑草の生育にも拍車がかかります。放っておくとすぐに荒れ地と化します。
 そこで、マルチの登場です。この黒いビニールシートをかぶせるだけで、雑草たちは、怖い上司に指導されたかのように、ぴたりと生えなくなります。
 数カ月先の状況を予測しながら進めていくというのも、畑作りの楽しさです。
 さて、スコップを使って成形した土の上に、マルチをかぶせていきます。1人でやるには要領がいる作業です。油断すれば風で吹き飛んでしまうので、慎重さが要求されます。
 マルチの端に土をかぶせてしっかりと固定し、今年はしわにならずに貼れたな、などと自己満足に浸る瞬間がまたたまりません。朝日を味方につけたような気分になります。
 さて次はいよいよマルチに穴をあけ、苗木の植え付けです。ポットからそっと取り出し、大切に植えていきます。そうしてその上から堆肥をかけてやります。しゃがんで行う作業なので腰が痛くなりますが、そこは気合でカバーします。
 全部で50株以上植えた頃には太陽はだいぶ高くなっています。コーヒーブレイクの後、仕上げに支柱を立てます。以前は山の竹を切って使っていましたが、一昨年からホームセンターで買ったものを使っています。こういうところは、お金をかけた方が合理的です。
 麻の紐で野菜と支柱を結びつけると、作業完了です。気が付けば、体中が土で真っ黒になっています。しかし、得も言われぬほどの爽快感があるのも、また事実です。 

オーガニックなひととき

 朝5時に目覚めた時、和紙のシェードからはすでに朝日が透けていました。
 台風も去り、連休前に譲っていただいた野菜の苗をついに植える日が来たのです! すべきことがある、というのは、心と身体にとっては、やはりありがたいですね。
 というわけで、長靴を履き、タオルを首に巻き、手袋をはめて裏庭へと出ました。レモンの木に止まっていた雀たちが、私を見て一斉に飛び立った後、軽く体幹トレーニングをしました。関節の可動域を広げる動的ストレッチが中心のメニューです。
 それが終わると、いよいよ作業開始です。今年は、トマトが3種類(そのうち糖度の高いフルーツトマトが10ポットもあります!)、キュウリ、オクラ、パプリカ、ナス、それから、メロンの苗もあります。
 フルーツトマトとメロンはプランターに、そのほかは畑に植えます。
 まずは、昨日の夕方にあらかた耕していた畑の土を、鍬を使って改めてほぐします。2週間前に有機肥料をまいていたので、土は十分にやわらかくなっています。
 ちなみに私は、化学肥料は一切やりません。生ゴミを処理してできた堆肥と、腐葉土、それからホームセンターに売ってある牛糞しか入れません。いわゆるオーガニックというやつです。せっかく自分で栽培するのだから、スーパーにはあまり売っていない野菜を作りたいというこだわりがあるのです。
 土を作り始めて今年で7年目。最初の頃は養分が足らずに野菜もなかなか大きくはなりませんでしたが、年期を重ねるごとに土が良くなってきたのでしょう、去年は売り物にも負けないほどの芳醇な収穫が得られました。
 この7年間、自然の力だけを利用してつくりあげてきた土を耕していると、自分の心もほぐれてゆくのを感じました。さて、このつづきはまた明日・・・

ゼロに戻ることの大切さ

 久しぶりに温泉に浸かりました。と言っても豪華なホテルの内湯ではなく、家から車で10分の所にある古い公衆浴場です。
 ただ、ここの湯が何とも絶妙なのです。100%源泉掛け流しで、湯はとろとろ。しかも温度がそんなに高くないので、長い時間浸かっていてものぼせません。
 深めの湯船に入り、窓ににじむ朝日を見上げていると、そういえば、今の仕事に就く前、つまり、高校の教師だった頃は、よくここに来たなぁとしみじみ思い出しました。
 夕方、学校での仕事が終わって、ここの駐車場に車を止めてから服を着替え、温泉街の周辺をランニングした後でこの温泉で汗を流していました。
 駅伝に燃えている頃は、元日の朝に走り始めをしたこともあります。なにせ、この施設は、1月1日の朝6時から営業してくれているのです。建物は相当古く、昭和初期の写真にも写っていて、当時はこの温泉郷のランドマーク的な存在だったようですが、今となっては、あまり目立ちません。
 それでも昔ながらのこぢんまりとした施設は、常連で賑わっています。
 肩まで湯船に浸かりながら、ふと思ったのですが、見知らぬ人と同じ湯に浸かるというのも味わいがありますね。今では土鍋を大勢でつつく機会もずいぶんと減っていますが、そういう時代だからこそ、同じ風呂に入るという経験は、どこか新鮮ですらあります。
 特に、裸同士のつきあいというのが何とも言えません。普段は、背広を着て、互いの肩書きを意識しながら働いているわけです。でも、裸になってしまえば、そういうものは目に見えません。仮にどこかの社長さんが同じ湯船に入っていても気付くはずもなく、恐縮することもありません。そうやって、すべてを忘れてリセットできるところが、温泉のリラックス効果をさらに高めているのだと思います。

カメレオンの悩み

 みなさん、いかがですか? 疲れていませんか?
 私だけかもしれませんが、身体が鉛のように重いです。つい先日、「無理をしすぎると、自分でも予期しない方向に進んでいくのかもしれません」と書いたばかりですが、なんだか無理をしないとやっていけないような感じです。
 1つは、このどんよりとした天気の影響があると思います。人間も、天候によって左右されるのです。やはり、自然には逆らえないですね。
 特に今の時期は着るものに困ります。6月の衣更えを過ぎると、チノパンに半袖シャツという、いわゆるクールビズで堂々と過ごせるのですが、今は中途半端です。
 私の職場は5月からノーネクタイ、ノー上着ということになってはいますが、会議などで外に出る時などは、そういうわけにもいきません。どこかのお偉方がネクタイをきちっと締めている中で、私だけ手軽な服装をする勇気はありません。えてして年長者は、まずそういうところをチェックするものです。
 なので、職場から外に出る前は、ロッカーに付いた小さな鏡の前でネクタイを締め、上着を羽織るわけです。そして、日差しに当たった途端、全身に汗が流れ始めます。会議が終わった後は、汗でスーツが重くなっているような気がします。
 きっとそういう我慢が疲労としてたまるのだと思います。
 季節の変わり目をどう過ごすかというのは、ここ数年の私のテーマです。要は、いかに変化に対して適応するかということです。
 ダーウィンは『種の起源』の中で、強いものが生き残るのではなく、変化に適応するものが生き残るというようなことを書いていますが、私たちは、一個人として外界と関わっている以上、常にそうやって生きているのだと思います。
 そりゃ、疲れますよね~

0.01秒の孤独

 今日はヘンな天気でした。
 朝、オフィスで電話中に、建物を揺らすほどの雷が鳴って、回線がぷつりと切れました。初めての経験でした。
 かと思えば、昼前からは雨はぴたりと止み、急に蒸し暑くなってきました。
 でも、今日ばかりは最後まで気分が晴れませんでした。分厚い雲が空一面を覆い尽くしていたからです。
 ほんとうは、周りの人はやさしいはずなのに、いい人のはずなのに、私は恵まれているはずなのに、どうしても気分が晴れない1日でした。
 定刻を過ぎて、上司が帰宅し、同僚との他愛のない会話の中でふっと笑う瞬間、まるでサブリミナル画像のように孤独が影を落とします。
 こんな日は、楽しければ楽しいほど、孤独を感じるのです・・・

ほんとうの自分について

 職場の同僚を見てみると、マスクをしている人が多いようです。
 ひょっとして、免疫力が落ちる時期なのかもしれません。GWの間に、4月からの疲れがふっと出てきて、連休明けにもう1度スイッチを入れようとして無理をしてしまう。だから身体の方がストップをかけるわけです。いわゆる「5月病」というやつです。
 身体は心よりも正直ですね。
 近代は理性の時代であると、特に西洋では考えられているようですが、さすがの理性も身体の正直さの前には勝てません。
『源氏物語』に六条御息所という強烈なキャラクターの女性が登場します。彼女は元々は皇太子妃だったのですが、夫の死後、世間から身を隠すかのように生活していました。
 もう2度と恋などしない、もしそうなれば『人笑へ』の対象になりかねない、頑なに心に決めて生きていたのに、光源氏と出会ってしまう。
 身分も境遇も違う光源氏が自分に振り向いてくれるわけはないと諦めながらも、そうやって理性でブレーキをかけようとすればするほど、光源氏に惹かれてしまうわけです。
 そのうち光源氏は訪ねてくれなくなります。彼女は毎晩胸を焦がしながら恋人の再訪を待ち望むのです。それでも源氏は現れない。彼女は光源氏の正妻である葵の上に激しい嫉妬を覚えます。そうしてまた、そういう負の感情を抱く自分に嫌気がさしていた。こんなことでは情けないと、燃えるような感情を理性で抑え込もうとしたのです。
 ところがある日、ついに魂だけが抜け出し、物の怪となって、葵の上に憑りついて、光源氏に語りかけるのです。物思いに悩む魂は、こうやってあなたを求めてさまようのですよ、と。
 人間無理をしすぎると、自分でも予期しない方向に進んでいくのかもしれません。

季節外れの嵐

 5月の台風が4年ぶりに接近したせいで、今朝はものすごい嵐でした。
 雨戸を開けると、庭の緑は無造作に乱れ、植木鉢や農具が散乱していました。
 古典の世界では、台風のことを野分(のわき)と言います。文字通り、野をかき分けるほどの強風ということです。
『源氏物語』には「野分」という巻があります。特に事件が起こるというわけでもないのに、印象深い巻でもあります。
 光源氏の息子の夕霧が、父の邸宅である六条院を訪れた時のこと。この日はいつもよりも大きな野分が過ぎたばかりで、六条院の様子もいつもと違います。父の住居の方に歩いて行くと、いつも立ててある屏風が畳んであり、そこに紫の上の姿を垣間見るのです。
 平安時代の貴族女性は、祭りや禊などの特別な場合を除いて外に出ることはありません。普段は御簾の内側にいて、夫以外の男性には、決して顔をさらしませんでした。
 義母である紫の上の顔を見たことがなかった夕霧にとって、その美しさは衝撃的でした。
 
春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す。
 
 春の夜明けの霞の中から、風情のある樺桜が咲き乱れるのを見る気がする。つまり、野分がもたらした非日常によって、夕霧は封印された美を目の当たりにするのです。
「野分」の巻には、そのようにして、紫の上の美が描いてあります。
 そういえば、私の家の荒れた庭にも、風情があるような気もします。自然がもたらす非日常の中に、普段は見えない本質がふと垣間見られる、野分とはそういうものなのかもしれません。

続・ある晴れた初夏の朝に 

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ある晴れた初夏の朝に

 休日は、いろんなことを考えてしまいますね・・・
 日頃は、全集中力を仕事に傾けているために、こうやってオフになって時間が出来ると、普段考えないようなことが急に入ってくるのかもしれません。
 仕事のこと、人生のこと、考えれば考えるほど、苛立ったりします。
 さて、今日も天気が良かったので、朝早くから庭に出てみました。今の仕事に就いてからは休日の出勤も多く、こうやって庭に出ることもめっきりと減ってしまいました。
 先日農業科の先生からいただいた野菜の苗を植えようと畑だけはしっかりと耕しているのですが、来週の初めに台風が来るらしく、植え付けはそれが去ってからしようなどと考えながら、家の裏にある小さな畑に足を運びました。
 すると、ちょっと見ないうちに、畑の周りに大きな葉が生い茂っているのに気付きました。それはイチゴの葉で、数年前に母が1株だけ植えたものが、どんどん繁殖し、今では裏庭の大部分を覆い尽くすまでになっています。
 スーパーマーケットに並ぶ可愛らしいイチゴからは想像できないほど、その繁殖力たるやものすごく、数もさることながら、葉の緑も太陽に照らされて瑞々しく輝いています。茂みの奥には真っ赤なイチゴの実がぶらさがっています。
 葉をかき分けると、実は至る所にぶらさがっています。未成熟な白いものもあれば、完熟して真っ赤になっている実もあります。
 思わず、一番大きな実を取り、口に放り込みました。イチゴ独特の甘い香りが最初に飛び込んできて、後ですっぱさが残ります。夢中になってイチゴをいただきました。
 果実の命がそのまま体に染み込んでゆくようでした。ふと見上げると、空には真っ白な雲が浮かんでいるのに気がつきました!

500円玉と雪

 国産腕時計の最高峰といわれるグランドセイコーがどうしても欲しいということを、以前書きました。しかし、自分には高額のためにそう簡単に手に入れることが出来ない、それで、500円玉をコツコツと貯金箱に入れているという涙ぐましいネタでした。
 あれから数ヶ月。100円ショップで買った貯金箱がそろそろ満タンになってきました。500円とて、私にとっては貴重だから、どんどん貯めてゆくわけにもいかない、それで、買い物をしたお釣りでキラキラした新しい硬貨が出た時だけ、それを大事に取っておいて、帰ってから貯金箱に入れるようにしています。
 それゆえ、貯金箱の500円玉はどれも輝いています。グランドセイコーを手首に巻くにはまだまだ先は長いわけですが、それでも目標額に達成した時、この思い出の詰まった500円玉たちを時計屋に渡すのも、なんとなく哀しくなってきました。
 恋多き女性として知られる和泉式部が、平安時代にこんな和歌を詠んでいます。

 待つ人の いまもきたらむ いかにせん 踏ままく 惜しき 庭の雪かな
 
 愛しいあの方の訪問をずっと待っている、でも、今来られたらどうしましょう。美しく積もった庭の雪は、だれにも足跡をつけてほしくないわ・・・
 和泉式部にとって、庭に積もった雪は、首を長くして恋人を待った時間そのものであり、恋人への思いを象徴していた、だからこそ、恋人の足跡さえもつけてほしくなかったわけです。
 もちろん、私の500円玉が和泉式部の雪のような文学的世界をもっているわけではありませんが、長い間の思いがこもったものには、やっぱり愛着が湧くものです。それは、とりもなおさず、その間を生きた自分への愛着なのです。

1日が流れてゆく・・・

 今日は、1日中、オフィスでのデスクワークでした。
 さあ、たまりにたまった仕事を一気に片付けてやるぞ! と意気込んでいたのですが、どういうわけか体が思うように動いてくれません。連休明けの体は鉛のように重いのです。
 しかも、こういう日に限って、上司から次々と仕事のオーダーがかかります。それは私が担当している業務とは直接かかわりのない、いわば雑用のようなものです。
 だれかに頼まれた仕事はさっさと片付けるようにしているので、つまりは自分の仕事がどんどん滞っていくわけです。
 電話も容赦なくかかってきます。連休中にできなかった問い合わせが噴出しているかのようです。どこの職場でもそうかもしれませんが、電話を取るのは基本的に下っ端の仕事で、しかも私の室では2コール以内に受話器を取るのが鉄則になっています。
 なので、いくら仕事に集中しかけても、目の前に電話がある限り、流れは寸断されるわけです。というわけで、本格的に仕事が進むのは、勤務時間外になります。
 今日も日中は晴天でした。しかし、結局1度も外に出ることなく、オフィスの中で夜を迎えました。上司も帰り、電話もかからなくなり、よし、今度こそ集中して仕事に取り組めると思った矢先、携帯電話が鳴りました。見ると親父からでした。
「携帯電話の電源が切れて、充電器が見あたらないから、持ってきてくれ」というオーダーでした。そんなこと、明日でもいいじゃないかと思いつつ、それはそれで気になるので、仕方なく今日は仕事を残したまま職場を出ることにしました。
 だれかに頼まれた仕事は真っ先に片付けるというのも、よしあしです。
 帰りの車の中で、窓から入ってくる風に吹かれていると、だれかに必要とされるのも光栄なことかもしれないと、ささやかれているような気分になりました・・・ 

偉大なる人物

 ここのところ、ほぼ1日2回、病院へ行っています。
 親父が網膜剥離の手術を受けて、長期の入院をしているのです。家から病院までは目と鼻の先なので、誰かが入院するたびにお見舞いに駆けつけるのですが、これが父親となると、頻繁に足を運ばずにはいられません。
 私が病室を訪ねるのは、早朝の出勤前と、夜の帰宅前です。分厚い眼帯を充てた親父は、顔を上げると眼球の中に充填したガスが抜けてしまうらしく、いつもうつむいています。そのせいで、顔は、試合後のマイク・タイソンのようにむくれ上がっています。
「これまで、こうやってうつむき続けることがなかったから、人の足下ばかり見とるわい。お前、足、でかいのう」と親父はおどけます。そうして、退屈しのぎの週刊誌を買わされたり、空腹に耐えられないとパンを買いに行かされたりと、私はいいように使われています。何かと不自由な病人のためには、これくらいのことはやって当たり前ですね。
 それにしても、病院とはなんとも言えないところです。どことなく薄暗く、薬品臭が漂い、入院病棟に入ると特有の生臭さが充満しています。プレッシャーを受けながらもあくせくと働かざるをえない私のオフィスとはおよそ対極の世界です。
 親父の病室は4人部屋ですが、他の患者さんもそれぞれに気が立っているようで、おそらく私なら、夜は全く眠れないだろうと思います。  
 そこへ持ってくると、親父はなかなかストロングです。1日中うつぶせてベッドに横たわりながらも、どこかエンジョイしているようでもあります。このあたり、漁師歴50年のキャリアが効いているのでしょう。遠洋漁業の大揺れの船内で、時に人間関係にもまれながらも生き抜いてきたわけですから、不自由な入院生活もものともしない様子です。
 そのうち、痛々しいこの親父が偉大にさえ見えてきます。

あなた(わたし?)へのエール

 マイノリティに関する話題が新聞を賑わせています。
 思想や意見の問題、民族の問題。「民主主義」とは、じつはけっこう難しいものです。
 マイノリティ、つまり少数派であることは、不安であり、勇気がいることです。多数決で自分1人だけ意見が違うと、否定されたような気分になってしまう。その時の孤独感ときたら、ほんとうにつらいものです。周りの人から嘲笑されたような気分になってしまう。古典文学で言う「人笑へ」の世界です。
 もちろん、それが大した問題ではない場合はそんなに傷つかずにすむでしょう。高校の文化祭で、自分はカレーライスを作りたかったのに、多数決で焼きそばに決まってしまった。そういう場合は、気持ちを切り替えて焼きそばつくりに専念すればいい。
 しかし、自分にとってどうしても譲ることの出来ないことが争点になっている場合は、また事情が違うはずです。たとえそれが「人笑へ」の対象になろうとも、少数派でありつづけることには意味があるはずです。
 私はそういうところにこそ、自分が自分であることの証があると思います。もちろん、少数派でいる以上、他者との対立も生まれるし、敵対心という重苦しい感情を抱くことにもなるかもしれません。
 ただ、これは、私が生きてきた極めて狭い世界における経験則ですが、多数決の勝者とは、案外細かいところまで思慮が及んでいないことが多いものです。長いものに巻かれるということは、深く考えるという手続きを省略することがあります。
 自分らしく生きるということは、少数派である自分にエールを送ることかもしれません。つまり、自分らしく生きるということは、何らかの戦いを強いられることなのです。

光と影の季節

 いやぁ、それにしても今日は天気がいいですねぇ!
 空は青く、風は心地よく、新緑が萌えています。こういう日は、どこか遠くへ出たくなります。海沿いのレストランやショップには、普段見ない数のバスや車が止まり、多くの観光客の姿があります。誰もが自由に、そして幸せそうに連休を満喫しています。
 そんな中、私は仕事に行くために車を走らせました。こんな日は、窓を開けてアクセルを踏むだけで、どこか休日的な気分になります。
 さて、今日はイベントをサポートしてくださるボランティアの打ち合わせでした。メンバーは仕事をもたれている方々ばかりなので、休日にしか集まることが出来ないのです。会場は市の中心にある中学校でした。
 会議室の窓からあふれる日差しに包まれて、話し合いも順調に進みました。無事に終えて気分良く会場を後にしようと思った時、グラウンドの方から野球部の声が聞こえました。
 渡り廊下からグラウンドを覗くと、そこにはユニフォームを着た中学生がずらりと並んでトス・バッティングをしていました。彼らの後ろには腕組みをした先生が見守っていました。選手も指導者も、この時期にしてすでに真っ黒に日焼けしています。
 しばらく彼らの様子を眺めていると、今度は体育館の方からピン球の音が聞こえました。中を覗くと、半袖と短パンの中学生たちが卓球の練習試合をしていました。卓球台の周りでは入部したばかりと見える部員たちが、素振りをしたり球拾いをしたりしていました。そうしてやはり、ジャージを着た顧問の先生が一生懸命にアドバイスしていました。
 努力する人の汗は、なぜにこうもまぶしいのでしょう。私は、1人で駐車場に移動し、車のエンジンをかけました。自分も誰かのために汗を流したいという思いがこみ上げました。
 学校の周りに植えてあるツツジの花が、青い空に向かって鮮やかに咲いていました。

連休半ばですね

 今日は全国的にいい天気だったようです。
 お出かけをされた方もたくさんいらっしゃることでしょう。

 4月から全力疾走で駆け抜けてきたあなたが、少しでもリフレッシュできる休日でありますように・・・

 また明日、お会いいたしましょう。

あたたかい時間

 今朝は、庭に落ちる雨音で目が覚めました。
 そういえば今日は中学校の同窓会。スーツを着てネクタイを締め、外へ出ました。
 こういう機会に参加するのは稀なことです。特に中学時代の友人とは全くといっていいほど付き合いがないので、案内はがきを受け取った時には、素直にうれしかったです。
 会場は、母校の近くの八幡宮で、私たちの氏神です。幹事の計らいで、宴会に先立ってみんなの健康祈願が催されました。神殿内にはすでに多くの同級生が集まっていて、久々の再会を喜ぶ人もいれば、戸惑い気味の人もいました。中にはグローバルな舞台で活躍したり、大学教授になっている人もいました。もちろん地元に残ってがんばっている人もいます。みんな、それなりに年齢を重ね、自分の人生をしっかり生きているようでした。
 私たちの学年は、たしか100人くらいはいたはずですが、今日はそのうちの30数人の参加でした。みんなで神前に正座をしたあと、宮司の祝詞がはじまりました。
 私は一番後ろの列の窓際に座りました。開け放たれた木窓の外では、雨が榊の葉を濡らしていました。その奥には土俵が見えました。小学生の頃、あそこで相撲大会があったのを思い出します。どうやら今でも使われているらしく、手入れがされていました。
 この境内でよく遊んだものです。かくれんぼや鬼ごっこをしました。スケッチ大会で絵を描いたこともあります。境内を囲むように佇む杉の木立は、あの時のままです。
 中学を卒業し、私は高校、大学、大学院と進学し、今に至っているわけですが、その中で同級生のことを思うことはほとんどありませんでした。しかし、こうやって久々に再会し、思い出の詰まった氏神様でお祓いを一緒に受けると、不思議なぬくもりを感じます。
 ふるさとで一緒に学び合った経験は、目に見えない絆として心の中にずっと残っているのだと、後ろからみんなを見ながらつくづく思いました。

ひとりぼっちの休日

 いよいよ大型連休の初日ですね!
 思いっきりリフレッシュする・・・つもりでしたが、朝から出勤でした。
 それが、オフィスには誰もいなくて、遠く離れた建物にある守衛室まで歩いて行って鍵をもらい、再び戻ってデスクについた時には汗だくになってしまいました。
 これまで休日出勤した時には必ず誰かがいましたが、さすがに皆さん、ゴールデンウィークくらいはちゃんと休もうということなのでしょう。
 ポットでお湯を沸かし、窓を開けて、簡単に掃除をする。日頃は職場の誰かが知らず知らずにしていたことを、今日は自分でしました。
 ただ、1人きりの仕事も悪くはありません。普段はひっきりなしに鳴り響く電話もかかってこないし、落ち着いて仕事に集中できます。今日は、たくさん応募いただいたボランティアのデータベースを作成しました。
 窓からはそよ風が入ってきて、他のデスクの書類を飛ばします。私はそのつど席を立ち、書類を元に戻す。いつもはそこに座っている上司も今日はいないわけです。
 そよ風は新緑の香を運んでくれます。まばゆいばかりの日差しも一緒に入り込み、電灯をつける必要さえありません。
 木々に留まっている小鳥のさえずりを聞きながら、1人で昼食のサンドイッチを食べていると、あぁ、ここはこんなにも静かな場所だったんだなと、しみじみ思いました。
 結局、予定よりも早くに目標の仕事が終わりました。ボランティア1人1人の名前を入力しながら、まだ見ぬこの方たちと対話し、つながっているような気分になりました。
 外に出て、鍵を守衛室に返しに歩いていると、夕刻の日差しが木々の新緑を照らしていました。静かな散歩道でした。
作者

Author:スリーアローズ
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とびっきり寂しい旅に・・・

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