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鎌倉物語 36

「ああ、その問題はそうやって解けばよかったんだって、自分でもびっくりするくらいにすんなりと納得できたの。その時タカシ君は山本さんと熱く語ってた。でね、あなたの姿をぼんやり眺めてると、女の人の影がふっと現れたの」
 僕は自分でも認識していないくらいに速いペースでポテトを口に運んでいた。残りはあとわずかになっている。
「世界がぱあっと開けて、これまで見えそうで見えなかったものが見えるようになったの」
 もちろん明子は軽はずみで言っているわけではない。
 自らの腹にきちんと落ち、なおかつ自らの言葉で発することができるという確信を得ないままその手の話をすることはまずない。
 それゆえ僕はいつも彼女の話にきちんと耳を傾ける。明子は僕の理解を超えた女性だという先入観をもって接した方が、結果的に後悔しないで済むということを僕は体得している。
 僕はストローに口を付けてジンジャー・エールを飲んだ。それはまだ十分に冷たかった。気がかりなのは、この話の結論がどこに向かっているのかという一点のみだ。
 彼女は伏し目がちに残りのチーズバーガーを食べている。時間をかけて咀嚼して口の中全体で味わうかのように。僕は彼女の様子を注視しながら自分の食事を取る。
 
 ハンバーガーを食べきって、コーヒーを飲んだ後で明子は顔を上げ、そよ風のように言った。
「すてきな旅だった」
 旅だった、という過去形が心を引っ掻く。
「ほら、さっき、タカシ君のそばに女の人が見えたって言ったでしょ」
 明子はテーブルの上に両肘を置き、大事な話を思い出したという口調で話を再開した。
「その女の人は、あなたの近くにいるよ」
 明子は微笑みながら、それでも真剣な目をしている。
「でも、その人には、他に男の人がいる。それでもその女の人はタカシ君のことを思ってる。あなたのことをずっと思い浮かべながら、その男の人と一緒に暮らしてる。でももしタカシ君が手をさしのべれば、おそらく彼女はタカシ君のもとに来る。時間はかかるけど」
 さっき明子はジャズピアニストの女、つまり美咲のことではないかと洞察した。だが、僕が思い当たるのは可南子の方だ。可南子は近くにいるのだろうか?
 ジンジャー・エールを喉にくぐらせ、息を吐くように僕も言葉を出す。
「君が何を言いたいのか、悪いけどよくわからない」
 明子は一旦僕の方に目を遣ったものの、まもなくして視線を横に滑らした。
 隣の席の女性が僕の方をちらと見たのが横目で分かった。隣は三人家族だ。パパとママ、それから幼稚園児くらいの男の子。いかにも幸せそうな家庭がすぐそこにある。
 僕は声を一段低くしてこう付け加えた。
「君と離れることなど考えられない」
 彼女は大きく息を吸った。そして、静かに目をつむった。
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鎌倉物語 35

 店内に足を踏み入れると同時に、フライドポテトの匂いが空腹を刺激する。レジカウンターの前で客が並んで注文している様子を見ると、今鎌倉にいるのだという特別な感慨が消滅する。
 だが明子はこの光景を新鮮なものとして捉えたらしい。
 制服を着た店員のテンポの速さに焦りの表情を浮かべる彼女を見ると、どういうわけかほっとする。
 
 ハンバーガーのセットをトレイに載せ、奥に空いている四人がけのテーブルに腰を下ろす。ゆったりとした席の座り心地が意外にも心を落ち着けてくれる。膝を休めるという点においてはとてもいい条件だ。
 明子はチーズバーガーを手に取ったまま、それをどうやって食べていいのやら思案を巡らしている。僕は自分のビッグマックにかぶりついて見本を示す。
 すると明子は控えめにかじりつき、唇に着いたトマトケチャップを紙ナプキンで拭きながら「おいしい」とつぶやき、手に持った食べ物をしげしげと眺めた。
 すべてが僕の知らない明子だった。
「今日は濃い一日だったなあ」
 僕が言うと、明子はこっちを見てかすかに頷いた後で、再びハンバーガーを口にした。
「まさか君がこんな店に入りたがるなんてね」
 彼女はハンバーガーを片手に持ったままホットコーヒーを口にした。それから少し間を置き、言葉を選ぶように話し始めた。
「寿福寺の中で、急に身体が楽になったの」
 僕は自分のビックマックにかぶりつく。
「タカシ君は何も感じなかった?」
 僕は彼女の瞳を見つめる。眼鏡のレンズが僕の顔を映している。すると、寿福寺での記憶が蘇ってくる。

 やぐらの中で見た裸の女性、興奮気味にシャッターを切るカメラマン、今なお鼻の奥にかすかに残っている線香の香り・・・

「ねえねえ」
 明子は少しだけ身を乗り出してきた。
「タカシ君ってさ、ずっと想い続けている女の人がいるでしょ?」 
 口の中のハンバーグが喉に引っかかる。
「ほら、いつだったか、お互いの過去の話をし合ったことがあったよね。あの時ジャズピアニストの女の子の話してくれたでしょ。あの人のこと?」
 僕は改めて彼女の顔を凝視した。
「ううん、いいのよ、何も言わなくて。もう過ぎ去ったことだろうし、それにタカシ君が誰を想おうと、それは私の干渉すべき範疇じゃないから」
「君は一体何を言おうとしてるんだろう?」
 明子はフライドポテトを口に運びつつ壁に掛けられた絵画に目を遣った。色鉛筆で薄く描かれた夕日の海岸の絵だった。砂浜には自転車が一台停まっている。
「寿福寺の話の続きだけど、やぐらの前で、いろんな方向から声が聞こえてきてね。一体これは何だろうと思って一つ一つに耳を傾けた。そしたらね、それは、これまで私が抱えてきた疑問や問題を解決するためのヒントだったの」
 明子は壁の絵から目を離し、僕の方に視線を戻した。

鎌倉物語 34

「商店街はさすがに新しくなってるけど、全体の雰囲気は昔とあまり変わっていないような気がする。それにしても、あの頃は本当に若かったなあ」
 明子はそうつぶやき、和風雑貨屋の軒先で足を止めた。そして、そこに陳列してある扇子を手に取り、彼女と僕との間でぱっと広げた。鮮やかな朱色は外側に向かうにつれて濃くなるように染め抜かれ、全体に可憐なモミジの絵が散りばめられている。
「きれい」と明子は言い、優雅に仰いでみせた・・・

 京都。町屋の並びにぽつりと佇む店。可南子はふと足を止め、店頭に飾られた扇子を手に取って広げて見せた。
 あれはたしか西陣の辺りで、二条城から京都御所を通って平安神宮まで歩く途中のことだった。
 傾きかけた太陽が情緒ある町並みをノスタルジックに照らしていた。可南子は僕にぴったりと寄り添っていた。
 結局可南子はその扇子を手に入れた。
 淡い紫の花が描かれていた・・・
 
 明子は心ゆくまで扇子を眺めた後でそれを元あった場所にそっと戻し、再び歩き始めた。
 それからしばらくして問いかけてきた。
「お腹空いたでしょ?」
 僕はふと我に返った。
 扇に描かれた紫の花は記憶の奥にフェードアウトしていく。
「こうもお店が多いと、選ぶのが難しいね。でも、こうやって歩いているだけで何だか楽しくなる」
 それは可南子の声のようでもあった。

 結局僕たちは、夕食場所を探すのに、小町通りを往復して再び鎌倉駅前に戻ってくることになった。
 日は完全に落ち、通りの灯りが夜の闇に浮かび上がっている。僕としてはとにかく座ることができればどこでもかまわなかった。
「気になっているお店があるんだけど」
 明子は駅前ロータリーの真ん中に立ち、気を取り直したように言った。遠慮することはないからそこに入ったらいいと僕は応えた。
「あそこ」
 明子はロータリーを囲むビルの一つに指をさした。だが、僕にはただの雑居ビルにしか見えない。
「どこ?」と僕が言うと、「ほらあそこ、大きなエムのマーク」と明子は僕の耳元で声を上げる。
「まさかマクドナルドじゃないよな?」
「私、これまで一度も入ったことないのよ」
 明子は少女のような笑顔をこっちに向けた。
「いつかは行きたいなって思っていたんだけど、何となく今日がその日なんじゃないかって思うのよ」
 今回何度も耳にしたような台詞だが全く別の言葉に聞こえてしまう。
「マクドならいつでも行けるんじゃないか?」
「今日を逃すと、一生行けない気がする」
 とにかく膝を休めたかった僕には、彼女の提案を却下する理由などなかった。

鎌倉物語 33

 北鎌倉駅のホームは、さらに人が少ない。
 同じ鎌倉の地名が入っていながら鎌倉駅とはずいぶんと雰囲気が異なることがはっきりとうかがえる。
 駅舎に行き、コインロッカーを開けて自分のバッグと久々の対面を果たした時、まるで二十年ぶりにタイムカプセルでも開けたかのような気分になる。
 下り線ホームに移動して列車の到着を待つ。そこには僕たちを含めて五人ばかりしかいない。ホームの背後には円覚寺の森がある。
 まもなくして到着を知らせるベルが鳴り、列車が入ってくる。

 車内はホームの寂寥感とは対照的に、学生やサラリーマンでごった返している。汗や香水の匂いが充満し、人間たちが熱を放射している。
 人目を憚らずに喋る女子高校生、何やら深刻な表情でスマートフォンの画面を睨みつけている若い男性、ビジネスバッグを抱えたまま目を閉じているサラリーマン、達磨大師のような厳格な目つきで空間上を凝視している初老の男性、窓に映る自分自身に向かって物憂げな視線を向ける女性・・・
 ふと明子に目をやる。今まで元気だった彼女もさすがに疲れを感じたのか、吊革を両手で握りしめて目を閉じている。ただ口元は安らかだ。
 僕は山本氏の名刺をどこかになくしてしまったことに気づく。名前だけの、不思議な名刺。
 横須賀線は快調に進む。窓の外の森が夕闇に透けながら滑らかに流れてゆく。今日一日の行程をおさらいしているようだ。
 ほどなくして街の明かりが点在するようになる。車のライトやネオンサイン、ビルの灯りが鎌倉の市街に再び戻って来たことを知らせる。
 鎌倉は北と南で全然違う。明子が話していたことがよく分かる。

 鎌倉駅のホームに降り立った時 、一段と冷たい風が首筋に張り付いてくる。たしかにこの東口は、さっきたどり着いた西口とは様子が全く違う。駅舎の外観も街にふさわしい瀟洒なものであるし、駅前広場にも賑わいがある。
 初めて自分の思い浮かべていた鎌倉に来たという実感を得る。
「あそこがメインストリートよ」
 駅舎を出てすぐに明子が指さした先には赤い鳥居が建っていて「小町通り」という看板が掲げられている。なるほど駅前にうごめく人々はそこに吸い込まれているようだ。
 昔ながらの商店街のような趣があり、実に多くの店が軒を連ねている。土産屋もあれば菓子の店舗もある。鎌倉彫の名店があり小さな美術館もある。レストランのたぐいは数え切れない。そして多くの観光客がひしめいている。外国人もいる。ちょっとした夏祭りを連想させる。
「なつかしいなあ」
 明子は吐き出すように言う。雑踏に消されそうな声だが僕にはちゃんと聴き分けることができる。

鎌倉物語 32

「ここに来たことには何か意味があるのよ。心が不思議なほどすっきりしてるもの」
 咄嗟に声の方向に目をやる。そこには明子がいる。ネイビーのハーフコートを身に纏《まと》いベージュの帽子を深くかぶり、紫の眼鏡をかけている。
 僕は彼女の背後をきょろきょろ見回す。
 明子は僕の顔を覗き込んで、どうしたのと言い、少し笑う。どうやら、彼女はまさしく明子のようだ。
「だいぶ疲れてるみたいね」
 僕は深呼吸する。寿福寺の空気が肺に入ってくると同時に頭が重く響く。脇の下には嫌な汗をかいている。木立の奥で烏が立て続けに鳴く。

 僕たちは何事もなかったかのように来た道を黙って引き返している。明子は前を向き僕は下を向いている。赤い布を着た五体の地蔵が視界に飛び込む。彼らは仲良く並んで合唱でもしているように映る。曲のタイトルは『みんなで死ねば怖くない』だ。
 まもなくして朽ちかけた山門が再び現れる。そこから振り向くと、魚の鱗のような本殿の瓦が夕日に輝いている。彼女は本殿に向かって手を合わせ頭を下げる。僕はその様をぼんやりと眺める。
 さっきのやぐらの中に座っていた女性の姿がはっきりと頭の内側に貼り付いている。線香の香りも依然としてくすぶっている。

 総門を抜けると踏切の音がして、列車が走り去る。窓の中には室内灯に照らされた乗客が見える。
 目の前にそびえる山の上には紫色がかった空が広がっている。携帯電話を取り出して時刻を確認すると、あと少しで十七時になろうとしている。ということはこの寺に二時間近くもいたことになる。そのことにまず驚く。
 昼に無窓庵で入手した「北鎌倉さんぽマップ」を広げると、意外にも鎌倉駅はすぐ近くだということが分かる。
 僕たちは住宅地の間に続く細い路地を横須賀線の線路に沿ってさらに南下する。
 膝に痛みを覚えているが、すたすたと歩を進める明子を前にして弱音を吐くなんてできない。それにしても日頃は運動などしないはずの彼女がどうしてこうも快調なのか解せない。彼女は朝来た時よりも体調が良くなっているようにさえ見える。
 辺りはたちまち街らしい様相を呈し、市役所や税務署の看板も見られるようになる。その並びには紀伊国屋もあり、トートバッグを提げた買い物客で賑わっている。
 街の風景に気を取られている間に鎌倉駅に着いていた。
 駅舎は思った以上に小規模でこれといった特徴もない。駅前には小さな広場があるがそこには公衆トイレとこぢんまりとした時計塔が建っているだけだ。ここは西口でメインは東口の方だからよ、と明子は説明したがやはりどこか物足りない。遠くで焼き鳥の香りが漂う。
 僕たちは鎌倉駅から横須賀線に乗り、北鎌倉駅に逆行した。コインロッカーに荷物を預けていたのだ。
「この辺りが出たとこ勝負のつらいところよね」
 列車の中で明子は苦笑いを浮かべた。
 彼女の瞳はこれまで見たことのないくらいに明るい。

鎌倉物語 31

「写真集、ほんとに出来上がるかな」
 明子は僕が手にした名刺を見ながら言った。彼女が口にした久々の言葉だった。
「でもね、いつかその写真集を見るんじゃないかっていう予感もするのよ」
 明子はそう続けた。
 山本氏が消滅した後、寿福寺の裏山には再び静寂が訪れた。モミジを揺らす風もそろそろ冷たくなってきている。  
 最後にもう一度実朝の墓所を顧みる。薄暗いやぐらに置いてあった線香の煙はもう見えない。残り香だけが行き場もなく宙に漂っている。
 その時唐突に、ある考えが浮かび上がる。この香りは僕の脳裏に染みついた記憶なのではないか?
 線香の火はもう完全に消えてしまっているのだ。

 やがて香りは、心に混乱をもたらす。実朝と中也の人生が僕の人生に溶け込んできて、そのうち境界すら分からなくなってくる。
 隣には明子がいる。明子? ほんとうに明子なのか?
 ここは京都で隣にいるのは可南子ではないのか? 可南子? あの時僕が愛していたのは可南子ではなく美咲ではなかったのか? 僕は可南子を裏切ったのだ。だのになぜ彼女と歩いているのだ? 

 ふと実朝のやぐらの中を見る。そこには暗闇の中に女性が膝を抱えて座り込んでいる。
 女性は裸だ。そんな冷たいところで何をしているのかと恐る恐る尋ねてみるが何の反応もない。死んでいるわけではない。肌は水仙の花のように透き通っていて生気に満ちている。
「生きながら死んでいるんだよ」
 隣で男の声がする。紺色のハンチングをかぶり髭を生やした男だ。
「彼女には過去もなければ未来もない。哀しみも不安もない。ただそこにいるだけだ。そして彼女は自由だ」
 男はおもむろにカメラを取り出し写真を撮り始める。
「こうやって記録しておかないと不安なんだよ。俺はまだ自分自身を抜けることができないからな。俺は常に恐怖を抱えて生きている。甥に首を取られるかもしれないし、人生に疲れ果てて精神衰弱で狂い死ぬかもしれない。ホラホラ、これが僕の骨だ」
 男は不安をかき消すかのようにシャッターを押す。
 すると声が聞こえる。かすかな声だ。最初それは線香の香りかと思った。しかしそれは紛れもなく声だった。
「ここには無条件の平安があるの。何物にもとらわれない、安らかな世界が」
 女の声だった。
「ここは長いこと探し求めていた場所。やっぱり今日、ここへ来るべくして来たんだわ」
 その声は澄みわたっている。空の彼方から響いてくるようでもある。
「静かだ」
 髭を生やした男は興奮気味にシャッターを切り続ける。何が何だかまるでわからず、とにかくやぐらに近付くと、いつの間にやら彼女の姿は消えている。
 線香の香りだけが、つんと鼻に付く。

鎌倉物語 30

「でも彼らは静けさの中にいるわけだから、多くを語らない。だから目立たない」
 山本氏は握りこぶしを口元にあてがって、小さく二、三度咳払いした。それからこう言った。
「東条英機、ご存じですよね?」
「東条英機って、あの?」
「そう。あの東条英機です。太平洋戦争後にA級戦犯として死刑判決を受けた軍人だ。彼は巣鴨の拘置所に入れられて、徹底的な自己批判・自己否定の末に地獄の底まで堕ちました。我々にはとうてい及びもつかないほどの地獄だったでしょう。そして、その極限の果てに見えたのが仏の光だったのです。ちょうどその頃、彼は浄土真宗に出会っています。悪人正機ってやつですね。つまり彼は獄中で抜けたのです」
 山本氏はそう言って軽く腕を組んだ。
「その証拠に東条は死刑執行の数分前に車の中で熟睡した、それに、勇んで処刑台に上がった。抜けた後の彼にはもはや処刑すら怖くはなかった」
 もちろん僕は山本氏の話を信じ込むことはしなかった。えてしてこの手の話には個人的解釈が含まれるものだ。
 ただ問題は、山本氏の語り口には説得力があるということだ。源実朝と中原中也は最後まで人間的であった、だからこそ死んだ後に異様な印象が残った。それに対して、東条の死には静けさが漂う。
「少し話しすぎましたかね」
 山本氏は自らに言い聞かせるようにつぶやき、その後で細く長い息を吐いた。
 彼の目元に込められていた力がしだいに緩まってゆく。
「特にあなたは静かな女性だ」
山本氏は突然そう言い、視線を明子に向けた。明子は背中をびくりとさせた。
 山本氏の話をまともに受け止めちゃだめだよ、と僕は言いたかった。君はその手の話を信じ込みすぎるきらいがあるからね。彼はただ僕たちに持論を展開したいだけだ。そして願わくば僕たちを自分の世界に引き込もうとしている。そんな人間はよくいるよ。

「今日はおかげでいい写真が撮れました」
 彼は髭で覆われた口元をほころばせながら明子の方を見て「悪用はしませんからね」と冗談っぽく念を押した。
「もし写真集が出来上がれば、どこかで手に取ってくださると幸いです」
 そう言ったかと思うと山本氏はさっと右手を挙げ、僕たちに別れを告げた。それからくるりと背中を向け、裏山のさらに深いところに続く小径に消えていった。
 明子は山本氏の背中に向かって何かを言おうとしたが、結局どんな言葉も出なかった。彼があまりに素っ気なく去ったものだからタイミングを逸したのだ。僕はそれでよかったと思った。彼女がますます混乱するのを見たくはない。

 ふとポケットに名刺が入っているのを思い出す。「山本耕二」としか記されていない、今思えばいかにもあの人らしい名刺だ。

鎌倉物語 29

「じゃあ、ご出身は山口で?」
 山本氏の言葉に僕は頷いた。
「そりゃ、奇遇だ。いや、じつはね、僕の祖母も山口なんですよ。だから小さい頃なんかはよく遊びに行ったものです、なつかしいなあ」
 爽やかな風が吹き、頭上のモミジを揺らす。さらさらと葉のこすれる音がする。

汚れっちまった悲しみに今日も小雪の降りかかる

 山本氏は鼻歌でも歌うように、中也の詩を口ずさんだ。
「それにしても、源実朝と中原中也って、似ているところがあると思いません?」
 山本氏は意外な問を投げかけてきた。僕はそれについて考えてみた。すると山本氏は、「痛々しいんだよね」と先に結論づけた。
「死を怖れているから痛々しいし、だから死んだ後には不気味な後味が残る」
 山本氏はそう続け、白髪交じりの顎髭を右手で撫でた。
「でも、逆に死を恐れない人間っているんですか?」
 僕は思い切って聞いてみた。初対面の人間に対してはずいぶんと大胆な質問だと、言った後になって自覚した。
「それが信仰の世界に生きる人間ですよ」
 山本氏は深海魚のような目で言い切った。
「でも信仰なら、多くの人がもっている」
「だから、信仰というものは、『ある』とか『ない』とか、『もってる』とか『もってない』などというものさしでは計れないんですよ。そこにたどり着くかどうかってことだから。そのためには抜けなければならない」
「抜ける?」
「そう。抜けるんです。自分自身を突き抜けるんですよ。そうやって抜けた人間だけが信仰の世界にたどり着くことができる。そこには何もない。静けさに満ちている。まさに仏の世界だ。したがって死の恐怖すらない」
 山本氏は両方の手のひらを上に向けてそう語った。
「なんだか非現実な話ですね」
 僕は批判を込めてそう言った。
「非現実的ですよ。凡人にはとうていたどり着けない境地だし、そんなことすら考えずに人生を終える人間だっているでしょう。でも、だからこそ信仰には価値がある。全人生を賭けてでも目指すだけの価値が」
 山本氏の声は大きく太くなった。
「そう考えると、実朝も中也も、最後まで抜けることができなかったんだと私は思っています。逆の言い方をすれば彼らはきわめて人間的なまま死んでいった。今なお人々の心をとらえるのは、そういうところなんですよ、きっと」
「自分自身を突き抜けた人間っていうのは現実にいるんですか?」
 僕が聞くと、山本氏は「いる」と間髪入れずに答えた。

鎌倉物語 28

 というわけで、僕たちは被写体となることを承諾した。
 山本氏は煙草を携帯式の灰皿の中に捨て、ライカを取り出した。それから彼の指示通り、やぐらや五輪塔、木々の緑などをバックに二人でカメラの前に立った。

「おかげでいいのが撮れましたよ」
 山本氏は撮影を終えた後で満足げに微笑んだ。
「私、こんなに一生懸命に写真を撮られたことなんてなかったわ」
 明子も満足げだった。初対面の人間にこんな表情を向けるなんて明子にとってはきわめて珍しいことだ。休日には外にさえ出たがらないのだから。
「今撮った写真はどうするんですか?」と僕は聞いてみた。
「目下、写真集を作ってるんです。信仰をテーマとした」
 山本氏はライカを磨き終わった後でそう答え、再びセブンスターに火を付けた。
「ということは、私たちには信仰があるように見えたんですか?」
 明子はそう聞いた。
「信仰というものは『ある』とか『ない』とかいうものさしで計られるもんじゃない。目には見えないが確実に存在するもの、それが信仰じゃないですか」
 明子はよく分からないという顔をした。僕も同感だった。
「あなた方は、やぐらに向かって静かに手を合わせていらしたでしょ。その静けさにこそ、僕は惹かれました」
「静けさ?」と明子は言った。
「そう。静けさです。今の世の中って、静けさを感じることがなくなったと思いません? たしかに、文明の中であくせくと働く人も、そりゃ、必要だ。実際に社会を支えているのは彼らなんだから。でも、それが人間としての本質かって言われれば、残念ながら、そうじゃない。人間とは本来宗教的な存在なんだと思うんです。五年ほど前に死にかけましてね。あの時天から声が聞こえたんですよ。このままがむしゃらに働いて貴重な人生の残り時間を削るよりも、人間としての静けさを取り戻すことの方が大事だと」
 山本氏の話を明子は神妙な面持ちで聴いている。僕には彼女がどんなことを考えているのかよく分かっている。
 それから山本氏は実朝のやぐらに近づき、墓前に手を合わせた。明子はというと、深い思索の淵に迷い込んでいる。

 礼拝を終えた山本氏はゆったりときびすを返し、思い出したかのようにつぶやいた。
「そういえば、中原中也が亡くなったのもこのお寺なんですよね」
「中原中也?」
「ええ、中原中也です。以前は、この場所に家が建っていて、今我々がいるまさにこの辺りで亡くなったんですよ。中原中也は、お好きで?」
 自分は中也と同じ中学校に通っていたのだと思わず言うと、山本氏は「ほお」とテナーサックスのような声を響かせた。その時、中原中也記念館の最後の展示室に紹介してあった詩の一部を思い出した。

ホラホラ、これが僕の骨だ

 同時に、古びたジャズハウスのステージで、薄暗いスポットライトを浴びて歌う美咲の姿も浮かんできた。それらはすべて、強烈に胸に刺さった。

鎌倉物語 27

「私には肩書きなんてないし、住所だって定まらない。電話も持ってない。したがって、名刺も名前だけなんです」
「お寺の写真を撮られてるんですか?」
 明子は名刺に目を落としたまま尋ねた。
「ええ。おととし会社を早期退職しまして、その後写真を撮りながら全国を廻ってるんです」
「じゃあ、肩書きはカメラマンだ」
 僕がそう言うと、「ですかね」と何だか煮え切らない答えが返ってきた。
「ところで、どうしてこの寿福寺に?」
 山本氏はそう聞いてきたが、僕には答えようがない。それよりも人と会うことが苦手な明子が窮屈な思いをしているのではないかということが気がかりだ。
 僕たちが何も言わないので山本氏は間を繋げるように話した。
「いえ、こう言っちゃ、なんですがが、何だか絵になるお二人だなって思いましてね」
 彼は持っていたライカをショルダーバッグにしまい、ポケットからセブンスターを取り出して慣れた手つきで火を付け、いかにもうまそうにそれを吸った。まっすぐに立ち上がった煙は空気の中に溶けてゆく。
 そのさまを見て、円覚寺の黄梅院にあった山頭火の俳句をふと思い出す。

山の色澄みきつてまつすぐな煙

 ひょっとして句の中の煙とは煙草かもしれない、だとすればあの句の風景はずいぶんと変わる。
そんなことを考えていると、山本氏は、「貴重なお時間をお邪魔しました。どうぞ、すてきな旅を」と言い、立ち去ろうとした。
 その時、何を思ったか明子が口を開いた。
「どんな写真を撮られてるの?」
 山本氏は煙草をくわえたまま横目でちらりと明子の方を見た。
「僕は目に見えるものには興味がない。目に見えない、それでいて、確実に存在する、そんなものを撮りたいとは思ってます。ただ、残念ながら、そんなものはそうそう見つかるもんじゃない。だからこうして、あてもなく歩き廻ってるんですよ」
 山本氏はそう言って、真剣なまなざしを僕たちに向けてきた。
「私たちを撮りたいとおっしゃったのは?」
「ですからあなたがたには私の心を惹き付ける何かがあるわけですよ」
 山本氏は煙草の灰を指先で弾き落とした。
「悪用はしないですよね?」と明子は声を低くした。
「悪用のしようがない」
山本氏はタバコをくわえたまま笑った。
 明子は僕の方に顔を向け、写真くらいいいんじゃない、と意外な台詞をささやいた。明子がそう言うのであれば僕はかまわない。そもそも僕には失うものなんて何もないのだ。

鎌倉物語 26

「ミナモトノサネトモ」
 明子はやぐらの横に立てられた札の名前を読みあげた。「北条政子の息子だね。どんな感じがするんだろう、母の隣に眠ってるのは。だって彼は将軍でしょ」
 明子はそう言って膝に手を当て、やぐらの中を覗き込むようにかがんだ。
「二人とも、本来の平安の中にいるんじゃないかな」
 僕は思わずそう口走った。なぜそう言ったのか自分でもよく分からない。明子も何もコメントしない。
 僕は実朝の墓に向かって手を合わせ、目を閉じた。
「まさかあなたとこんな所で出会うとは思ってもみませんでした」と声が聞こえた。他でもない自分の声だった。
 私は死を怖れています。中学生の時に仲の良い友人が事故で死に、大好きだった父も亡くなりました。死は常に身近にありました。おそらくあなたのことを忘れなかったのもそんな経験があったからだと思っています。
 私は生きたいのです。そう思えるのは、明子がいてくれるからです。私は彼女と一緒に生きたい。
 実朝の声は聞こえなくなっている。
 明子もちょうど礼拝を終えたところで、そこに落ちていたモミジの葉っぱを拾い上げた。まだ鮮やかな緑だが傷のないいかにも端正な形を保ったモミジだ。彼女はそれをティシュペーパーにくるみ、大事そうにハンドバッグにしまった。

実朝のやぐらに別れを告げ、きびすを返そうとした時、背後に誰かの気配を感じた。反射的に目をやるとそこには男性が立っている。僕は思わず声を上げてしまった。
 男性は丁寧に整えられた白髪混じりの髭を生やし、ツイードのジャケットを纏っている。五十代後半から六十代といったところだろうか。ハンチングを深めにかぶり、僕の狼狽に対して申し訳なさそうな笑顔を浮かべている。
「こんにちは。良いお天気ですね」
 男は言った。少ししゃがれたそれでいて張りのある声だ。
 僕は何も言わずにただ頭を下げた。男は左手に黒のライカを持っている。
「やぐらを巡られてるんですか?」
 男はそう続けた。なかなか人なつっこい人間のようだ。
「ええ、まあ」
「いやね、いきなりのところ失礼ですが、あなたがたにお願いがありましてね、他でもない、写真を撮らせていただきたいんです」
 僕が何も言わずにいると、男は低くつぶやくように続けた。
「後ろ姿でいいんです」
 すると僕の背後から明子が訊いた。
「失礼ですが、あなたは?」
「おお、すみません、申し遅れました」
 男はそう言い、ジャケットの内ポケットから財布を取り出し、そこから名刺を抜いて僕に渡した。
 それは「山本耕二」という名前だけが記された名刺だった。念のため裏も見てみるがやはり白紙だ。
「名前しか書いてない」
 明子は僕の耳元でささやくように言った。
 男は僕たちの反応を楽しんでいるかのようだ。僕はこの男に対して不快感をもった。

鎌倉物語 25

 気がつけば明子はずいぶんと前に進んでいる。
 彼女の背中を追いかけていると、「北条政子墓所 → 」と記された立て札が茂みの中に現れる。
 雑草に囲まれた小径はどこか湿っぽく、途中、赤い衣をまとったお地蔵さんが並んでいたりする。突然岩肌がむき出しになっている所もある。
 明子に追いついた時は、僕たちはさっき見えた本殿の裏側に回り込んでいた。山際の斜面には墓が所狭しと立ち並んでいるのが見える。なるほど、たしかにこの寺は墓所としての性格が強いようだ。
 さらに奥に進むと切り立った大きな崖が現れる。ぱさついた感じの岩でできた地層だ。陽光に照らされた木々の緑が灰色の岩肌にうっすらと映り込んでいる。所々に大きな空洞が空いているのも分かる。どうやらこの辺りが寿福寺の最深部らしい。
「昔、ここが海だった時に波が削ったのか、それとも風が穴を開けたのか」
 明子は空洞に話しかけるかのようにつぶやいた。彼女が対峙している穴からはひんやりとした空気が流れ出している。
「これがやぐらね。鎌倉独特のお墓よ」
 明子はそう言い、空洞の中をのぞき込んだ。

 北条政子の墓を見つけ出したのはそれからまもなくのことだった。
 そのやぐらの奥には五つの石が積み上げられている。さっき明子が話していた五輪塔だ。鎌倉幕府を支えた執権の墓の割には質素な印象が漂う。塔の両脇には白い水仙の花が供えられており、薄暗い風景に唯一の色彩を与えている。内部は苔むしていて、古い石の匂いが鼻にまとわりつく。
 明子は目を閉じて両手を合わせた。
 それにしても、辺りは五輪塔だらけだ。
 鎌倉の歴史を作り上げてきた人物はこうして葬られているのだと物思いに耽りながら歩いていると、実朝のやぐらはすぐに見つかった。
 政子の墓よりも深く、だから内部は暗い。入口付近に線香が立ててあり、煙がたちこめている。一体誰が立てたのだろうと思う。これまで誰ともすれ違わなかったのだ。
 首をかしげながら、やぐらの正面に立ち、内部をのぞき込んだとき、あぶない、と思った。実朝が静かに語りかけてくるのだ。
 何と言っているのか、僕には分からない。いや、分かるような気もする。あまりに分かりきっていることだから、わざわざ認知のテーブルに乗ってこないだけなのかもしれない。
 いずれにせよ、僕はその語りに引き込まれそうになる。ものすごい求心力だ・・・
 
「どうしたの、疲れた?」
 明子の声が僕の魂を青空の下に引き戻す。
「いや、べつに何でもない」
 僕はそう言いつつも、こめかみの辺りが重く響くのを感じた。
「外に出て、コーヒーでも飲む?」
 明子は提案してくれたが、せっかくだからもう少しこの寺にいようと僕は応えた。すると彼女は安心したような顔で小さく頷いた。

鎌倉物語 24

 参道はまさしく森の中に続いている。つい今し方見えたこんもりとした緑の中を僕たちは歩いている。
 五十メートルほど進んだ所にもう一つ、さらに朽ちかけた門があり、それは開放さえされていない。開口部は柵で閉ざされていて、隙間から望むと大きなお堂がひっそりと鎮座している。どうやらあれが本殿らしい。
 鎌倉五山第三位の古刹だというのに僕たちの他には誰も見当たらない。明子は門の脇に立てられた説明板を食い入るように見ている。
「さっきの赤い門は、どうやら山門じゃなくて外門みたいね、山門はどうやらこれみたい」
 明子は柵のされた門を見上げた。柱は所々ひび割れていて、屋根の裏には大きな蜘蛛が巣をかけている。
「逆にこういう門の方が、かえって修行する覚悟が湧いてくるのかもしれないな」
 僕は柵に手を置いてそう言った。
「私も、好きよ。こんな感じのお寺。ただ、ここはおそらくは修行の場というよりは、墓所としての性格が強いんだと思う。だからこんな感じだし、積極的に公開もされていない」
 そう言って明子は帽子を脱ぎ、案内板に目を遣りながら左手で髪をといた。
「ここには北条政子のお墓があるみたいよ。北条政子といえば頼朝の奥さんね。それともう一人、源実朝のお墓もあるって書いてある」
「実朝?」
 そもそもこの旅のきっかけはケーブルテレビの旅番組だった。明子はちょうど僕の部屋に来ていて、彼女の持ってきたショートケーキを食べ、紅茶を飲みながら二人でテレビを観ていた。すると彼女は鎌倉に行きたいと言いだしたのだ。
 あの時テレビの画面にあったのは胸のすくような海岸線の情景だった。どこまでも青い水平線が続き、白い波飛沫が上がっていた。そのさまを見て心に浮かんだのが他でもない実朝の和歌だった。

 大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

 心の中で、波の音が聞こえる。大きな波が岩に当たって「われてくだけて裂けて散る」音だ。
 いや、それは波ではないような気もしてくる。僕の心の中の何かが、われて、くだけて、裂けて、散るようだ。
 無意識のうちに息を吸い込む。遠くで、かすかに磯の香りがする。
 その時、門の横に脇道が見えた。どうやら裏山の方に続いているらしい。
「行けるところまで行ってみよう」
 僕がそう言ったときには、すでに明子は歩き始めていた。
 彼女は非公開となっている本殿を遠くに眺めながら、その体を裏山の方に傾けている。

鎌倉物語 23

 明子の話が終わると同時に、切通しも終わった。
 崖は左右に開き、その間の風景からは、秋の日差しが潤沢に降り注ぐようになった。切通しの終わりは、どうやら北鎌倉の終わりをも意味しているようだった。
 僕たちは突如として現れた住宅地を南に進んだ。途中、薬王寺とか岩船地蔵堂など、聞いたこともない寺の名前が立て続けに見られた。今からどこに行こうとしているのかと尋ねると、明子は迷わず「寿福寺よ」と答えた。
 その寺の名前を聞いても僕はぴんと来なかった。
「寿福寺って、建長寺、円覚寺に次ぐ、鎌倉五山の第三位のお寺なの。でも、なぜかこのお寺だけお参りすることがなかったのよね。四位の浄智寺も、五位の浄妙寺にも行ったのに。浄妙寺なんてずいぶん遠くて、わざわざ鎌倉駅前でレンタルサイクル借りて行ったのよ。それなのに、この寿福寺だけは縁がなかったのよ」
 明子の眼鏡は午後の陽光にきらりと照らされている。
「ひょっとして、それは今日のために取ってあったのかもしれないね」
 明子はそう結論づけた。いや、実は僕も似たようなことを考えている。この旅は予め用意されていたのではないかと。僕たちは今日、鎌倉のこの場所を訪れる運命にあった。
 つまり、これまでの時間はすべてこの瞬間に収斂されている。だとすれば、この旅にはそれ相応の意味があるはずだ。いったいどんな意味だろう?
 世の中に偶然などないというのは明子の思想だ。僕も知らず知らずのうちに彼女の思想に感化されているのかもしれない。

 僕たちは横須賀線と平行して南下している。線路を挟んだ向こう側に広がる閑静な住宅地の奥にはこんもりとした森が見える。孤立してうずくまっているようでもある。
 踏切が近づいたところでちょうど遮断機が下り、東京方面行きの横須賀線が通過した。それが過ぎ去ってから線路の反対側に出ると、初めて「寿福寺」の看板が見えた。
 案内表示に従って小径を進むと、今見た森がどんどん近づいてくる。そのうち、屋根と柱だけのまるで東屋のような簡素な門に突き当たる。
「これが寿福寺の山門みたいね」
明子が隣でつぶやいた。
「しかしこれが山門じゃ、威厳も何もないな」
 木々の間からは日差しがこぼれ、高いところでは枝が風でこすれ合っている。
「たしかにちょっと拍子抜けな感じね。地方のお寺でさえ山門は立派なのに、鎌倉五山の第三位だからね、ここは」
 そう言いながら明子は一歩下がって門全体を見渡した。
 色褪せた柱はうっすらと赤みがかっている、往時は朱塗りだったのかもしれない。唯一力強いのは門の脇にある石柱に彫られた「壽福金剛禅寺」という文字だけだ。
「ここ、誰かのお墓なんだ。ほら、五輪塔が置いてある」
 明子は門の左脇に手のひらを差し出した。そこには苔むした大きな石が頼りなさそうに積み上げられている。
「これは供養塔と言ってね、鎌倉では要人のお墓に必ずと言っていいほど置かれる石なのよ」
 明子がなぜそんなに興奮気味なのかも分からぬまま、僕は彼女に続いて門をくぐった。その瞬間、古木の香りがつんと鼻を刺した。

鎌倉物語 22

ひょっとして、これが明子との最後の旅になるかもしれない、直感的にそう思った。もちろんそれはあくまで直感だ。しかし僕は直感を信じるタイプの人間だ。

 可南子との旅がなぜ想い出に残っているのか。それはあの時僕が直感したからだ。僕たちは愛し合っていたにもかかわらず、それが二人で訪れる最初で最後の京都になるような気がしてならなかった。だからあの旅には、寂しいイメージしか残っていない。 

 僕の不安を逆なでするかのように、明子はぱったりと喋らなくなった。各々の靴が地面を踏む音だけが人気のない山道に心許なげに響く。彼女はまた自らの思索の淵に迷い込んでしまった。
「そういえば、建長寺には行かないっていう話だったっけ?」
 僕は意図的に話をそらした。明子は夢から醒めたようなぽかんとした顔でこっちを見た。それからだいぶ間を置いてからこう言った。
「私って、ちょっと前に何を話したか、すぐに忘れちゃうのよね。だからいつも目的地にはたどり着けないのよ。O型だからかな?」。
「血液型の問題でもないと思うけどな」
 それはおそらく君が過去に経験したことと関係してるんだよ。残念ながら僕は、そのことに関しては何もしてやれない。ただその経験はある時何かの拍子にフラッシュバックすることだけは薄々気づいている。だから君には現実逃避がいるんだ。君がよく脱線するのは、一つの所にとどまっておけない君の精神状態のせいだよ。
 僕は心の中でそう答えた。
「建長寺ってね、鎌倉街道を歩いていると、いきなりドカーンと現れるの。鎌倉五山第一位というだけあって十分な風格だけど、私には重すぎる」
 明子はほろ苦さの残る笑顔で進行方向を振り仰いだ。
「禅の世界はね、現世利益が期待できた密教とは少し違って、死と結びついてるの。鎌倉後期になると元寇が来て、武士たちは、命がけで海外の強敵とも戦わなくちゃならなかった。それで本気で来世を考えるようになって、大きなお寺を作ったのね」
 もうそれ以上死の話をするのはよそう、君はただ、建長寺の話をしていればいいんだ。僕は心の中で訴えた。
「でもね、建長寺みたいなお寺よりも、静かなお寺が私は好きなのよ」
 僕はただ黙々と足を運ぶ。体が温まってきたからか、膝の痛みはさっきよりも落ち着いているようだ。
 ところで今通ったのは「亀ガ谷坂の切通し」と言って、鎌倉時代は幕府に通じる貴重な抜け道だったのよと明子は話題を変えた。
 南は海に面し三方を山で囲まれている鎌倉は軍事的には理想的な立地条件だが、地質的に岩盤が厚く、交通網を築く上では難点も多かった。そこで幕府は岩盤をくり抜いて抜け道を造った。それが「切通し」らしい。鎌倉時代、御家人たちはこの細い山道を通り「いざ鎌倉」のラストスパートを切ったのだ。

鎌倉物語 21

「密教は現世利益があるということで、平安京の貴族たちに手厚く支持されて、その結果都には多くのお寺ができることになるのね。光源氏が病気を治すために寺へ行ったのも、そういうことなの」
 両側には崖と言った方がいいような岩肌がむき出しになっていて、日差しも遮られている。
「ところでさ」と明子は言った。
 景色が急変して、ここが鎌倉なのか、はたまたヒマラヤなのか判別しがたくなっていることを彼女は気にもかけていない。
「鞍馬天狗って聞いたことあるでしょ」
 僕は、名前だけはね、と答えた。
「鞍馬天狗は、その、京都の鞍馬寺で牛若丸に武術を教えるの。牛若丸って言うのは、源義経の幼名ね」
「まったく、君の知識はとどまることを知らないな」
 僕がそう言うと、明子は黙って深みのある微笑みを浮かべた。山肌の近くを歩いている彼女はすっぽりと影に包まれている。
 明子は一日のほとんどを読書に充てる。彼女には十分な資産がある。持ち家もある。読書こそが明子の日課であり人生なのだ。
「ねえ」
 明子はふと歩を止めた。僕も彼女に倣った。
「やっぱり鎌倉と京都って、つながってるんだ」
 そう言って彼女は、再びゆっくりと歩き始めた。
「光源氏と源義経が鞍馬寺でリンクした。しかも光源氏は架空の人物で源義経は実在の人物。京都と鎌倉は時空を越えてつながっている」
 そう言った直後に山肌から漏れる日差しが再び明子の上半身を照らしはじめた。
 京都と鎌倉は時空を越えてつながっている・・・
 僕は軽い眩暈に襲われる。京都を歩いた光景が鮮明に思い浮かんだからだ。それは美咲と京都のゴールデンルートを巡った時の光景ではなく、大学生の時に可南子と二人ですずろに歩き回った時の光景だった。なぜ可南子なのだろう?
 答えは簡単だった。可南子は明子の雰囲気にどこか通じるからだ。可南子も出たとこ勝負の所があった。

「タカシと一緒ならどこに行っても楽しいよ」
 彼女はそう言ったことがある。
あの時僕たちはたしかに愛し合っていた。そう思い起こした瞬間、かけがえのないはずの想い出は古い映画のポスターのようにみるみる色褪せてゆく。
 こうして鎌倉をふらりと歩きながら可南子と京都を歩いているような錯覚に陥る。京都と鎌倉は僕の中でもつながっている。
「次は鞍馬寺に行ってみるかい?」
 歩きながら僕はそう言う。ほんの、軽はずみに近い言葉だった。だのにその言葉に対して明子は顔色を変えた。光源氏や鞍馬天狗の話をしている時の笑顔は急に冷め、瞳はうつろになった。それはほんの一瞬のことだった。
 まもなく元の表情に戻り、何事もなかったようにさっきまでと同じペースで歩き始めた。しかしその一瞬の表情の急変は、サブリミナル効果のような逆説的な暗い印象を僕に植え付けた。

鎌倉物語 20

「それはあくまで私の想像だけどね。でも、きっとそういうことだと思ってる。鎌倉時代は武士が出てきたわけでしょ、そしたら当然、目の前で知人が殺されることだってあるわけで、自分だっていつそうなるか分からないと誰もが思ったはずよ。事実、鎌倉幕府の将軍も次々と死んでいったわけだし」
 小石を踏みしめて歩きながら、明子はそう言った。僕は実朝のことを思った。
「だから有力な武士たちは、死後のためにもお寺を整備したんだと思うの。しかも、厳しい修行によって往生できるという禅の思想は、体育会系的な武士たちに受けたのよ」
「なるほど」と僕は言った。そろそろ息が切れかけている。
「『源氏物語』、読んだことある?」
 明子は突然話題を変えた。高校の教科書には出てきたけど内容は覚えてないと答えると、彼女はこう続けた。
「時代を遡《さかのぼ》ると、平安時代の仏教は禅じゃなくて密教だったの」
「密教?」
「そう。秘密の教えを伝授していくのよ。空海とか最澄とか、聞いたことあるでしょ」
「なんとなくね。特に、空海とか」
「あの人たちは、ハイリスク・ハイリターンを信条に、危険を冒してまで唐に渡って仏教を学んで、日本に修行を取り入れたの。ほら、山の中で滝に打たれるやつ」
「あるね、そういうシーン」
「『源氏物語』の頃の仏教はその密教が主流で、格式のあるお寺は山の中に造られるのよ。比叡山の延暦寺なんかは京都から近いということもあって、修行の中心地になるのね。で、京都周辺の山にもお寺が必然的にできてくるの。光源氏が初めて紫の上を見る場面、知ってる?」
 さっきも言ったように、もちろん知らない。古典の授業といえば、動詞とか助動詞とか、今となってはどう役立っているのか分からないことばかりを詰め込んだ記憶しかない。僕の知っている文学関係者と言えば、源実朝と中原中也くらいだ。しかもそれは授業で教わったわけではない。
「光源氏が垣根越しに少女の姿を見つけるの。その子は飼っていた雀のひなを逃がして泣いてるのよ。源氏はその子が成長した姿を思い浮かべて心奪われるのね。その少女が後のヒロインとなる紫の上。その時源氏は義母である藤壺《ふじつぼ》を想い続けてて、幼い紫の上に藤壺の面影を重ねるのよ」
「なんだか、ロマンティックというより、危険な感じの話だな」
 明子は含み笑いを浮かべて話を続けた。
「源氏は結婚を前提に少女の後見を申し出るんだけど、そりゃ、承知されないよね。でも彼は、最終的には少女をさらうようにして連れて帰るの。いかにも強引な彼らしく」
 明子は再び饒舌になっている。彼女の話を聞いていると『源氏物語』を読んでみようかという気にさえなるから不思議だ。
「その、紫の上を初めて見た場所が、お寺だったの。源氏はわらわ病みと言って、今のマラリアみたいな病気に罹《かか》って、加持祈祷《かじきとう》の治療を受けに来ていたのよ。そのお寺は京都の北山にあった鞍馬寺《くらまでら》じゃないかっていう説もあるの。それも密教のお寺」
 僕は小さくなったのど飴をかみ砕いた。口の中はさっぱりしている。

鎌倉物語 19

 無窓庵の窓の外に揺れる青竹の群れを見ていると、ハイアット・リージェンシー京都の朝の光が強烈に思い出され、何ともやるせない心持ちになる。今自分が鎌倉にいることが、何かの間違いのようにさえ思えてくる。
 あれから美咲のことをウエブ・サイトで調べるが、彼女につながる情報は何ひとつとして得られない。はたして、バークリーに入学できたのだろうかと思う。
 明子はいささかまぶしそうな顔を窓の外に向けている。彼女は彼女で、僕とは違うことを考えている・・・

「いいお店だったね」
 店の外に出て、石段を降りながら明子は言ってきた。
「このお店に来るべくして来たっていう感じだったわ」
 彼女はまるでつっかえものが取れたような顔をしている。
 僕たちは再び鎌倉街道に出て、無窓庵のレジの横に置いてあった「北鎌倉さんぽマップ」という地図を見ながらゆっくりと歩いた。
 明子は僕の広げた地図にちらと目をやり、こう言った。
「もう一カ所、お寺に行ってもいい?」 
 もちろんいいよと僕は応えた。
「けっこう歩くけど、大丈夫?」
「たぶん大丈夫だけど、君は?」
「私は大丈夫よ」
 僕は両方の膝を交互に軽く振ってみた。実のところ、さすがに疲労がたまっている。
 明子は僕の脚に心配そうな視線を向けたが、僕は何事もなかったように地図を畳んでジーンズのポケットに突っ込んだ。 
 時間の経過と共に空気はますます軽やかになり、風も心地良い。歩道を歩く人々もさっきよりも増えている。
「この人たちはきっと建長寺をお参りしてきたのね」
 明子は人々の往来を横目で見ながら言った。
「君が行こうとしているのも建長寺なんだな」
 明子はふっと笑いながら首を横に振った。
「私、あのお寺はどうも好きじゃなくてね。一回行ったらもう十分って感じ」
 その言葉の通り、彼女は横断歩道を渡り、鎌倉街道にあっさりと別れを告げて細い路地へと入った。
「昔ね、鎌倉五山だけは制覇したいって思ってたのよ。でもほら、私って、出たとこ勝負のところがあるでしょ。寄り道しすぎて、結局すべてに行くことはできなかったのよ」
 明子はハンドバッグの中からハーブのど飴を取り出して、一つを僕にくれた。
「鎌倉五山って、なんだっけ?」
 のど飴はまだ口の中に残っていたビーフシチューの風味をたちまち中和した。
「簡単に言うとお寺の格付けのことよ」
 鎌倉街道から離れて百メートルも行かないうちに道は急激に細くなり、舗装もされておらず、山道のようになってきた。
「何も寺にまで格付けする必要もないのにな」
「それだけお寺が重要だったってことなのよ。なぜだと思う?」
 僕は分からないと即答した。
「死を身近に感じる時代だったからよ」
 明子はそう言い、微笑んだ。
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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