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鎌倉物語 58

 何はともあれ席に着こうと僕は提案し、支配人の前を通り過ぎた。明子は寝ぼけたような顔をして椅子に座った。

 僕たちに用意されていた席は窓際の特等席だった。晩秋の由比ヶ浜が間近にあり、所々で上がる波飛沫《なみしぶき》、空を舞うカモメたちがよく見える。沖には数艘《すうそう》の船が出ている。
 その景色を明子はぼんやりと眺めている。
 すると感じのよい笑顔を浮かべた初老の女性が足音を立てずにやってきた。おそらく支配人の奥さんだ。
 彼女は「おはようございます」と言った後でクロワッサンとバターロールを置いた。それから「お飲物はコーヒーと紅茶のどちらにいたしましょうか?」と歯切れの良い声で聞いてきた。
 僕は明子の方を向きオーダーを待ったが、何も出てきそうにないので、紅茶を二つ持ってきてもらうように頼んだ。

 厨房へと去って行った奥さんと入れ違いに今度は支配人がオムレツのプレートを運んできた。ラグビーボールのミニチュアを思わせるふっくらとした厚みのある真黄色のオムレツだった。中央には真っ赤なトマトケチャップがかけられている。付け合わせはパセリだけというシンプルな料理だが、十分な個性を漂わせている。
 
 今度は奥さんがサラダと飲み物を運んできた。細切りのキャベツの上にキュウリとトマトが入っていて、ポテトサラダが載せてあるだけの至ってオーソドックスなサラダだが、一つ一つの素材は瑞々しく輝いている。きっちりと描かれた静物画のような彩りだ。
 僕がサラダに目を落としていると、奥さんの方から話しかけてきた。
「すべて自家栽培なんですよ」
「ここで作ってるんですか?」
「ええ。裏が菜園になっていましてね、支配人がずいぶんとこだわってるんですよ。ビニールハウスもあるからこの時期まで夏野菜が採れるし、農薬も化学肥料も一切使わないからおいしくて安心なんです」
 奥さんは口元に笑いじわを寄せた。
 僕はまずフォークでキュウリを刺してそれを口に運んだ。軽く噛んだだけで水気が口の中にほとばしった。過ぎ去った夏の香りだ。
 思わず明子にも勧める。だが彼女は無反応だ。
 
 明子は大きく取られた窓の外に広がる湘南の海に視線を投げた。空はまんべんなく灰色をしている。水平線はぼやけており、左から延びる岬がうっすらと煙っている。蜃気楼のようでもある。
 そうやってしばらく外を眺めた後で、明子は静かに紅茶を口元へ運んだ。そして再度海に目を遣った。
「せっかくだから、食べたらどうだい?」
 僕がそう言うと、彼女はこっちに顔を向け、キュウリにフォークを刺して、口に運んだ。
 僕は手にしていたティーカップを置き、オムレツに手をつけた。新鮮な卵の匂いが口いっぱいに広がり、バターの風味が後からついてくる。焼き加減もスポンジケーキのようにふんわりとしている。
「あの支配人が時間にうるさい理由も分かるような気がするな」
 明子は依然として物憂げな顔をしながらも、かすかに頬を緩めた。それから、左手で頬杖をついた。
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鎌倉物語 57

 頭上には曇り空が覆い被さっている。やや湿気を含んだ風が、僕と明子の間を通り抜けてゆく。
 明子がやっとのことで立ち上がったのはしばらくしてからのことだった。
「とりあえず、行こう」
 僕は明子の腰に手を遣った。
 この段になって、ひょっとして喋りすぎてしまったのではなかろうかという思いがよぎる。しかしいったん外へ出てしまった言葉は取り返しがつかない。今は過ぎたことを検証する時間ではない。とにかく前に進むしかない。
 僕たちは全くの無言で歩く。前方には大鳥居がそびえ立っている。遠くで歩行者用の信号が青になったことを告げる電子音が聞こえる。

通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの 細通じゃ 天神様の 細道じゃ・・・

 砂利を踏みしめながら、ふっと支配人のことを思い出す。
 そういえば、朝食の予約時間をわざわざ繰り下げて7時30分にしてもらったのだ。携帯電話を取り出して確認すると、あとちょっとで7時になろうとしている。ギリギリの時間だ。とはいえ明子を急かすわけにもいくまい。
 
 大鳥居の下に戻ってきた時、数羽の鳩が地面を突っついていた。その向こうには、小さなタクシー会社が目に入った。

 タクシーの後部座席に乗り込んだ瞬間、若宮大路に立つ無数の信号機がずらりと並んでいるのが一望できた。
 ふと明子に目を遣る。彼女は焦点の定まらない目で虚空をとらえている。彼女にしか見えない世界の中に再び迷い込んでいる。
 
 鎌倉駅を過ぎた時、7:29になった。タイムリミットまであと1分。つまり、時間内の到着は絶望的だ。
 支配人はどんな顔をしているだろうかと想像する。眉間にしわを寄せて貧乏揺すりでもしているかもしれない。
 
 やがて湘南海岸に突き当たり、右折する。
 朝の海岸通りは快調に流れ、思ったよりも早くホテル「NAGISA」の文字が見えた。その看板は所々錆びているが、木造の建物の方はきれいな水色に塗装されていて、むしろ誇らしげな佇まいだ。車内の時計に目を遣ると7:41になっている。
 タクシーが停車し、明子はまだ降りようか降りまいか戸惑っているようだが、僕は半ば強引に彼女の腕を引いた。

 ホテルのロビーに入った瞬間、古い絨毯の埃臭さに包まれた。数年ぶりに戻ってきたような感覚だ。レストランにはパンの焼ける匂いとコーヒーの香りが漂っている。
 フロントには支配人が立っている。白のコットンシャツにブラックジーンズといういでたちだ。さっき腰に巻いていたエプロンと星条旗の三角巾は外している。
「すみません、遅くなりました」
 僕がそう言うと、支配人は何も言わずにこっちを見た。僕の予想したとおり眉間にかすかなしわを寄せ、ちらりと腕時計に目を遣った。

みなさまへ

暑中お見舞い申し上げます。
『静かな散歩道』に同行してくださり、ありがとうございます。
 
さて、連載中の『鎌倉物語』につきまして、この春から以下のサイトでも掲載しています。
当ブログでも引き続き掲載していきますが、どちらか参加されやすい方でお楽しみいただけたら幸いです。

これからも、よろしくお願いいたします!

https://kakuyomu.jp/works/1177354054881056081

鎌倉物語 56

「君の手紙を読んで、それからネットの履歴を見た時、寿福寺のやぐらを出る直前のことを思い出したんだ。あの時、君はやぐらの中にしゃがみ込んでいた。そばには山本氏がいて熱心にシャッターを切っていた。夢なのか現実なのかさえはっきりしない。ベッドの上で金縛りにかかっている瞬間に近かった。とにかく僕はずいぶんと混乱した。あの時山本氏は、やぐらの中の君を見て、生きながら死んでいるんだと冷静に説明した。それから、彼女は自由だとも言った。そんな光景を見せられてたまらなくさみしくなったんだ。何より君について山本氏の方から説明を受けるということが耐え難かった。しかも君は山本氏の説明が正しいということを証明するように、やぐらの中で言ったんだ、ここには無条件の平安があるってね」
 明子は僕の顔を見た。疲れ果てた眼球をわずかに震わせながら、ここへ来て初めて僕の顔を正面から見た。
だがしばらくすると、再び力のない視線を僕の喉元辺り投げ捨てた。それからまた首を横に振り始めた。
「どうした?」
 明子はひとしきり首を振った後で、小さく答えた。
「わからない。何がどうなってるのか、全然わからない」
「簡単だよ」
 僕は言った。
「君は死んでなんかいないんだ」
 彼女は振り子が自然に止まるように、首を振るのをやめた。
「もし君がほんとうに死んでいるのなら、どうして君は今そんなに苦しまなければならないんだ?」
 鳩が八幡宮の入口に向かって一斉に飛び立って行った。鳩たちの作る影が去った後で僕は続けた。
「もう一つ、どうしても解せないことがある。君は寿福寺で僕のそばに女性を見たと言った。それは僕がずっと想い続けている人で、僕のすぐ近くにいる、そして僕が手をさしのべればその女性は僕の元に戻ってくると言ったね」
 明子は全く無反応だ。
「その女性というのは、君のことじゃないだろうか? たしかに思い当たる女性がいないわけじゃない。でも彼女たちが今なお僕のそばにいるとはどだい考えにくいし、何より僕にとっては完全に過去の話だ」
 自分が腹話術師に操られている人形のように思えてくる。
「寿福寺での君はまるで別の魂が宿ったかのように明るかった。何らかの霊感が降りてきて視野が広がったというのは本当だろう。でも、君が見た女性というのはまさしく君だったんだよ。そうとしか考えられない。事実、僕の心の中には君以外いないんだから」 
 彼女の閉ざされたまぶたの隙間から一筋の雫がこぼれ落ちた。昨夜のタクシーの中に続いて、僕が見た二度目の涙だった。
 すると、誰かが竹箒で地面を掃く音が境内に響き始めた。
「いずれにしても、僕たちは今別れるべきではない」
 僕は自信を持ってそう言い切り、彼女の手からボストンバッグを引き取り肩を抱いた。
 だが明子はすんなりと応じず、華奢な肩に力を込めて抵抗した。
 しまいにはすとんとしゃがみ込み、両手を顔に当ててむせび泣いた。

鎌倉物語 55

「そういえば、マクドナルドで話してたね。寿福寺で、君が抱えてきた疑問や問題を解決するためのヒントを得たって。たぶん、僕の感覚もそれに近いはずだよ」
 明子は地面に視線を落とし、肩でため息を吐き出した。
「これまで君は、死の世界を身近に感じながら生きてきた。でもその一方で、生きることへの憧れもあった。だからこそ、君は僕と会うようになった。手紙に書いてあった通りだ」
「もう、やめて」
 その声は小さな社殿の壁に乾いて反響した。
「何も考えたくないの」
彼女は目を閉じて首を横に振り、感情を抑えるように言い捨てた。
「疲れ果てたの」
 地面に落ちた葉の転がる音が耳に入ってくる。辺りは順調に明るくなっている。
「あなたとはもう会えない。別れなければならないの」
 彼女はそう言ってから唇をさらに固く結び、ボストンバッグを握りしめて歩き去ろうとした。
「待ってくれ」
 僕が声を大きくしても、明子は足を止めない。むしろ足取りを速めようとする。僕は先回りして行く手を塞ぐ。彼女はよけて進もうとする。
 それで僕は、彼女の両肩に手を遣り半ば強引に足を止めさせる。小さく肩で息をしている明子はこれまで僕が抱きしめてきた女性とは別人のように思える。
「別れないと言っているわけじゃないんだ。ただ、このままジ・エンドというのはいくらなんでもさみしすぎるじゃないか。三年間も一緒にいたんだ。もっときちんとした別れ方というものがあるはずだ」
「私が感じていることは私にしか分からない」
「だから話を聞いてくれと言ってるんだ。僕はさっきここに来ながら君の感じていることにやっと寄り添うことができたんだ」
 明子は肩で息をするのを止めた。そして「聞きたくないの」と弱々しくささやいた。
「それも分かってる」
 僕は言った。
「これ以上僕の話を聞くと、別れられなくなるからだ」
 明子は目を軽く閉じたままやはり首を横に振った。僕は彼女の両肩からそっと手を離す。彼女はもう走り去ろうとはしない。たしかに疲れ果てている。
「でも僕をこの場所に呼んだのは君自身だよ」
 心の中にある言葉を率直に吐き出すべきだと思った。
「あれほど几帳面な君がどうしてパソコンの履歴を残していたんだろう? 僕の部屋でウエブ・サイトを見る時でさえきちんと削除して帰るのに」
 明子は目を開けて、僕の喉元辺りに目を遣りつつ何かを言いかけた。しかし口が開かれる前に僕は次なる言葉を彼女にぶつけた。
「君はたしかに僕と別れなければならないと思っているのだろう。でも、その裏側には全く逆の思いが貼り付いている。つまり『別れなければならない』と言い聞かせようとするのは『別れたくない』という思いを無理に打ち消そうとするからじゃないか」
 明子は何かを言うのを諦めたように見えた。

鎌倉物語 54

 視線を近くに移せば、参道を横切るように流鏑馬の通路があり、さらに手前には朱塗りの建物が整然と並んでいる。今まさに僕が通ってきた場所だ。
 能舞台のような吹き抜けの建物の隣には小規模ながらも品格の感じられる神社がある。
 明子がうつむいて立ちすくんでいたのは、その小さな神社の陰だった。
 僕は石段を途中まで降りたところで歩を止めた。
「ここにいることは分かっていたよ」
 石段を降りきり、明子のいる小さな神社に歩み寄る。社殿の柱には「若宮」という立て札が掛けてある。
 生い茂る木の枝には多くのおみくじが結ばれ、賽銭箱の近くには数え切れぬほどの絵馬が鯉の鱗のように掛けられている。
「ねえ」
 明子は僕を見ずに声を出した。
「ホテルに帰って」
 木立が風に揺れる。雲はさっきよりも厚みを増している。僕は明子との距離を一定に保ったまま、彼女の横顔に向けて言う。
「その前に確認しておきたいことがあるんだ」
 明子は微動だにしない。
「聞きたいことは山ほどある。もし、僕がどうしても君の元を離れたいのなら、それを全部聞いてからにしてほしいというのが本心だ。でも、それは君に負担を強いることにもなる。だから質問を絞り込むことにする」
 明子はやはり動かない。僕は心を無にして言う。
「君はもうすでに死んでるんだね?」
 その時、彼女の背筋はごくわずかだが伸びた。
 社殿の扉は開いているが内部をうかがい知ることはできない。彼女はその暗がりに向けて漠然たる視線を投げた。
「君の心はある意味、よく理解できるんだ」
 熱くなってはならない。そう自分に言い聞かせる。
 言葉とは取り返しのつかないものでもある。特に明子の場合、言葉の選択を間違えればすべてがめちゃくちゃになる。
「とは言っても、どうしても理解できない部分もある。そこがとても微妙で複雑だったから、ずっと戸惑いを感じながら君と接してきた。せめて僕にできることといえば、理解できない部分も含めて丸ごと君を理解しようとする、そのプロセスを諦めないことだった」
 彼女は右手に提げているボストンバッグを左に持ち替えた。
「君が僕の元を離れる予感はあった。でも本当にそうなった瞬間、僕はしまったと思った。君が書いた手紙を読んで、どこに行けばいいのかも分からないまま無意識に突き進んだ。そしたらね、その無意識の中でこれまで理解できなかった部分がどういうわけかすんなりと腹に落ち始めたんだ。トランプの神経衰弱で面白いように次々とカードが合っていくような感覚だった。何でもそうだけど、いったん答えが見えてしまうとそれまで必死になって考え続けたことが嘘のように思える」
 僕は、自分の口から次々と言葉が出てくることに驚いていた。先に言葉が出ておいてから、後で思考が形成されてゆくような感覚だ。

鎌倉物語 53

 もしこの境内の中に明子がいなければ、その瞬間、ジ・エンドとなる。僕にはもう心当たりがない。逆に言えば、焦る理由などどこにもない。心は意外なほど落ち着いている。
 早朝の参道を本殿に向かってまっすぐに進む。風はひんやりと冷たく、木の葉のこすれ合いが緑の香りを運んでくる。
「流鏑馬馬場《やぶさめばば》」と記された砂利道を過ぎると、目の前は左右に開け、いくつかの朱塗りの楼閣が姿を現し始める。
 左手には手水舎《ちょうずや》があり、正面には能楽の舞台を思わせる吹き抜けの建物がある。
 さらにそこを進むと、いよいよ長い石段が現れる。鶴岡八幡宮の本殿が僕を見下ろしている。
 第一段目に足をかけた時、身震いがする。これまでここに足を踏み入れた人は数え切れない。頼朝も実朝も政子も、おそらく中原中也も・・・
 そんな、数え切れぬ人々の魂が染み込んでいる石段を一歩上がるごとに、本殿が迫ってくる。
 半分ほど上《のぼ》ったところで、左手に巨大な切り株があることに気づく。ふと足を止めると、そばには看板が立ててあり、こう記してある。
「長年の間鎌倉の歴史を見守ってきた大銀杏は、このたびの台風で倒れてしまいました。千年の樹齢を数え、関東大震災でも倒れなかったのに非常に残念です。現在は移植を済ませ、新たな芽が出てくるのを祈るばかりです」
 つまりこれは、公暁が実朝の首を取るために隠れていた銀杏の切り株だ。
 ついに僕は実朝最後の場所にたどり着いたのだ。よりによってこんな切羽詰まった状況でここへ来るとは、しかも当の大銀杏は倒れているだなんて、想像だにしなかったが。
 この切り株を眺めていると、昨日の実朝の墓を思い出し、彼の和歌が胸の奥に聞こえる。
 
大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも

われてくだけて裂けて散るかも・・・

 再び石段の上の本殿を見上げる。僕には確信がある。明子はこの石段の先に必ずいる。
 僕は再び歩を進める。
 石段には僕の影がギザギザになって染みこんでいる。振り仰ぐと、雲に囲まれた朝日がぼんやりと天空ににじみ始めている。僕は明子の気配を感じる。
 
 だが、石段を上り切って荘厳な本殿にたどり着いても彼女の姿は見えない。そんなはずはないと、必死に見回してみる。明子はここにいなければならないのだ。
 楼閣に塗られた朱色がしだいに鮮やかになり本殿周辺の様子がはっきりとしてくればくるほど、そこに人の気配はないということも明らかになってくる。
 ため息をつき、きびすを返し、今上ってきた石段の上から風景の全体を見下ろす。視線の先にはついさっき支配人がタクシーを停めた大鳥居があり、そこを起点として、若宮大路がまっすぐに南に向かって続いている。そのはるか先には湘南の海が広がる。昨夜ホテル「NAGISA」の部屋から見た海だ。

鎌倉物語 52

 やっとのことで若宮大路に入った時、マークⅡの挙動は次第に落ち着きを見せ、ようやく時速四十キロ以上で安定走行できるようになっていた。
 ひとまず胸をなで下ろすと同時に、昨夜まさにここを走っている時に明子が泣いたことを想起した。それはまるで、十年前の出来事のようにも思われた。

 まもなくして、鎌倉駅の標識が視界に飛び込んできた。
 僕は星条旗の三角巾をかぶったままの支配人に、いったん駅に寄ってもらうように頼んだ。
 すると彼は「かしこまりました」と軽快に言い、いかにも重そうなハンドルを左に切った。
 駅前広場の静けさは冴えわたっている。昨夜の賑わいが嘘のようだ。僕は全力疾走に近いスピードでホームへと入り、明子の姿はどこにも見えないことを確かめてから、再びマークⅡの後部座席に飛び乗った。
 次は鶴岡八幡宮に行ってもらうように頼む。支配人は横目で僕を見ながら「はい」と応え、クラッチを踏み込んでギアを入れる。
 マークⅡは若宮大路を力強く北上する。道路の真ん中には車道よりも一段高いところに歩道が造ってあり、鬱蒼とした並木が続いている。
 その特別扱いの歩道が終わった所には、巨大な赤い鳥居がそびえ立っている。支配人はその下でマークⅡを停め、「着きました」とやはり事務的に言った。
 僕が心の底から礼を述べていると、支配人は顔を半分だけこちらに向けて「たいへん申し訳ございませんが」と話の腰を折った。
「朝食の準備がございますので、私はいったんホテルへ戻ろうと思うのですが」
「もちろん。後はタクシーを拾って帰りますよ」
 僕はそう言って、再度礼を述べた。
「それから、朝食の予約は七時となっております。昨日も申しましたがオーダーストップは一応八時半となっておりますが、できれば御予約の時間に間に合うように来て頂ければ幸いに存じます」
 スピードメーターの横のアナログ時計は、五時半を少し過ぎている。
「分かりました。何とかそれまでには戻るようにします」
 僕が答えると、支配人はこう言ってきた。
「あれでしたら、もう三十分遅らせてもよろしいですが」
「それは、正直助かります」
「では、七時半にお待ちしておりますので」
 支配人はそう言い残し、再びマークⅡを走らせた。その排気音で鳥居の下の広場に群がっていた鳩が一斉に飛び上がった。  
 空はうっすらと白みがかり、鳥居の間からは八幡宮の境内も広く見渡すことができる。まさに「いざ鎌倉」の終着点らしさが漂っている。
 僕は大きく息を吸い込む。
 すぐ目の池には半円の橋が架かっていて、それを渡ったところから始まる参道の両側には松が威嚇するかのようにそびえ立っている。遙か先に浮かび上がっている朱塗りの建物が本殿だ。
 本殿は、静かに、それでも何かを言いたげに、僕を見下ろしている。

鎌倉物語 51

「バッテリーが切れるのではなかろうかと思いまして。あれでしたら電源に差し込まれた方がよろしいかと。なにしろ十五年以上使っているパソコンでございまして」
 支配人は相変わらずの事務的な口調で電源コードを僕に差し出す。すぐに終わるからと僕はそれを受け取らない。今のこの瞬間に明子は鎌倉から離れてしまうかもしれないのだ。一秒たりともロスは許されない。
 僕は再び画面に目を遣る。
「どこにいるんだ?」
思わず声が出る。
 もう一度彼女の履歴に注意深く目を通す。場所を表す語は「寿福寺」と「鶴岡八幡宮」の二つだ。
 その時、右脳と左脳がつながった。昨夜、マクドナルドを出てここに向かうタクシーの車内で見た彼女の涙を思い出したのだ。この道は鶴岡八幡宮で突き当たるのだと僕が言った直後のことだった。
 すると、パソコンの電源が力無く落ちた。
 僕は支配人を呼び、すぐにタクシーをつけてもらうよう頼んだ。
 だが支配人は、眉間にしわを寄せて「この近くに営業所がないので時間がかかりますが、よろしいですか?」と声を低くした。
 よろしいはずがない。鶴岡八幡宮へ行きたいのだが最速の交通手段は何かと追及する。
 支配人は、少し間を置いてからこう応えた。
「最速かどうかは保証できませんが、他に手段がないわけではございません」
 
 僕は支配人の後に付いて半地下のガレージに降りた。そこには車が一台停めてあり、緑のシートが掛けられている。二人でそれを取り払うと、海岸から飛んできたと思われる砂埃が狭苦しいガレージに舞い上がった。
 思わず咳き込んでしまう。
 砂埃の中から現れたのは古いワゴンだった。トヨタ・マークⅡのエンブレムが貼ってある。丁寧に使い込んであるのだろう、年式の割には光沢がある。
 支配人は運転席に乗り込み、僕は後部座席に座った。室内は昭和の香りがぷんぷん漂っている。
「問題はこれからだ」
 支配人は独り言を漏らし、何度もキーをひねった。
 エンジンがかかろうとする音がずいぶん長いことガレージ内に響いた後で、どうにかこうにか点火してくれた。支配人はここぞとばかりにアクセルを踏み込み空ふかしをした。ガソリンの匂いが室内にまで入ってきた。
「ふだんはバイクを使いますので、こいつにはめったに乗らないのです。ちゃんと動いてくれるかどうか不安でしたが、今日はすんなりいったようです」
 そう言って彼は、額の汗をぬぐった。
 ところが本当の問題はそこからだった。トランスミッションの機嫌が悪いのか、きれいに舗装された道路上で遊園地のアトラクションのように激しくノッキングを繰り返したのだ。

鎌倉物語 50

 どこへ行けばいいのかさえわからぬまま、財布と電話だけを持って、僕は部屋の外に飛び出した。
 階段を駆け下りると、フロントから漏れる照明がほのかにレストランを照らしている。明子は昨日の夜ここであの手紙をしたためたのだ。
 フロントには人の姿はない。その奥は厨房とつながっているらしく、何やら香ばしい匂いが漂っている。
昨夜明子が客室に戻ってきた時に、支配人について語ったことを思い出す。
「あの人、たしかにちょっと偏屈なところがあるけど、話してみれば意外とまともな人よ。それに詰所には奥さんもいて、とても気の利く人だったわ」
 そういえば「調べたいことがあったからパソコンを借りた」とも言っていた。
 僕はフロントに駆け寄り呼び鈴を押した。だが厨房にいる人は気づいてくれない。しかたなく大きな声を出す。すると返事があって、奥から支配人が出てきた。星条旗の三角巾を頭に充て、白いエプロンを腰に巻いている。この人は調理も担当するのかと驚いたが、人間観察に時間を割いているゆとりもない。
「昨夜、女性が尋ねてきたと思うんですが」と僕は訊いた。
すると支配人は表情一つ変えず、「ええ。お客様のお連れの方です」と例のぱさついた口調で言った。
「彼女に貸したパソコン、僕にも貸してもらえないでしょうか?」
 僕がそう言うと支配人は一瞬まぶたをピクリとさせてこう応えた。
「もちろん、やぶさかではございませんが」
 まだ何か言いたそうではあるが、こっちには時間がない。その空気を察したのか支配人は仕方なくという表情を浮かべながら、奥の詰所からノートパソコンを運んできた。
 僕は礼を言ってそれをフロントのカウンターに置いた。レストランのテーブルを使ってもいいですよと言ってくれたが、そんなに時間を取らないからここで使わせてもらうと断った。
 ブラウザを開き、履歴を見る。するとそこにはいくつかの検索ワードが並んでいる。「鶴岡八幡宮」「寿福寺」「山本耕二」「尾田健一郎」「静かな散歩道」「日本写真家協会」「よみうり写真大賞」「やぐら」
 それらの項目を注意深く見比べる。初めて見る名前もあるが、ほとんどが昨日の動きと関連のあることだ。
僕は彼女の心に問いかける。君は一体何を調べたかったんだ? しかもそんなにも急いで。
 すると、手紙に書かれた文言を思い出す。
「山本さん、不思議な人です。あの人、いったい何だったんだろう・・・
 私には神のように見える。いや、神っていうのはちょっと違うかもしれません。寿福寺に眠る数え切れないほどの魂の代表者みたいな人。あなたには何のことやら、よく分からないかもしれません」
 条件反射的に「山本耕二」をクリックする。
 開かれたページにはこのカメラマンのプロフィールが写真と共に紹介してある。やはり紺のハンチングをかぶり鼻と顎には白髪交じりの髭を生やしている。
「お客様」
 その声ではっと我に返る。星条旗の三角巾をした支配人がすぐそばに立っている。

鎌倉物語 49

 ところで、生きることと死ぬことにはそんなに大きな差はないのだと言っていた人がいました。さっき寿福寺で出会った山本耕二さんです。
 山本さん、不思議な人です。あの人、いったい何だったんだろう・・・
 私には神のように見える。いや、神っていうのはちょっと違うかもしれません。寿福寺に眠る数え切れないほどの魂の代表者みたいな人。
 ごめんなさい、あなたには何のことやら、よく分からないでしょう。とにかく私はあの人の話を聞きながら気持ち良くなったのです。あぁ、いつも私が考えていることと同じことを言ってるって。私の中に残っていた生と死の間の壁がすうっと取り払われた感じがして、死ぬことが本当に怖くなくなった。
 でも、心配しないでください。何も私は今から死のうとしているわけじゃないですから。もっとひたむきに自分と向き合おうと思うのです。
 山口に来て本当に良かったです。でも、もう次の土地に移らなければいけません。そこで本を読みながら暮らすつもりです。この世にはまだ多くの本が眠っています。私は本の中に生き、そしてその時が来れば静かに死んでいきます。それが、私に与えられた人生なのです。
 あなたと出会った瞬間、心が大きく波打ったのを覚えています。彼と似ているところを感じたのです。身を隠して生きてきたつもりだったのに、実は彼と再会できることを密かに期待していた自分にその時気づきました。
 あなたと一緒にいると、東京や福井での幸せだった生活を何度も思い出すことができた。そうしていつしか私は以前の自分の一部を取り戻していた。信じられないことだった。だから私はあなたから離れる時機をついつい先送りしてしまった。
 去年だったかしら、あなたは結婚しようと言ってくれましたね。私、素っ気なく流してしまったけど、実は心が燃え上がるくらいに嬉しかったのです。正直なところ本気で揺れました。
 でも揺れれば揺れるほど、彼の顔が浮かんできて、やっぱりあなたのやさしさの中に飛び込むことができなかったのです。あなたに迷惑をかけてはいけない。あなたは私がいなくても生きていける。
 これ以上あなたと一緒にいてはいけないと自分を責めました。でもそれでもどうしてもあなたに会いたくて、体がいうことを聞いてくれなかった。甘えがあったのかもしれません。一体自分は何をしたいのだと、あなたの部屋を出てマンションに帰りながら自問自答し続けました。
 あなたのことは終生忘れられない、忘れられるはずがありません。でも私はあなたの知らないところに旅立ちます。あなたはまだ若い。思う存分人生を楽しみ、幸せというものをつかみ取ってほしいと心から願います。    明子

鎌倉物語 48

 震える手で電話をかけてみるが彼女は出ない。出るわけがない。
 つまり予感は的中したのだ。僕はずっと、この瞬間が頭から離れなかったのだ!
 もしこのまま明子が僕の元に戻ってこなかったら、僕には連絡の取りようがない。僕は彼女の電話番号とメールアドレス以外に連絡手段をもたないのだ。着信拒否されれば、それでおしまいだ。
 僕たちは三年間も一緒にいながら、じつはとても脆いつながりしか共有していなかったことを痛感させられる。今思えばすべて明子の思惑通りだったのだ。
 しかし、だからといって何もしないわけにはいかない。まだこの時間だ。明子はまだ鎌倉のどこかにいる。
 僕はほとんど無意識のうちに靴下に足を通し、スニーカーを履いた。鏡を見ると頭髪はずいぶんと寝ぐせがついていてペリカンの後頭部のようになっているが、この期に及んでヘアスタイルになど頓着していられるはずがない。
 とにかく急いで外に出ようとしたその瞬間、テレビの横のスペースに白い封筒が置いてあるのが目についた。明子からのものだった。
 
貴史君へ
 突然こんなことになってごめんなさい・・・
 今私は一階のレストランにいます。あなたはお風呂に入ってます。
 ここはとってもすてきなホテルですね。いいホテルをとってくれて、ありがとう。あなたにはほんと、感謝しきりです。こんなできそこないの私にずっとやさしくし続けてくれて、とっても嬉しかった。でも、その分申し訳なさもあるのです。
 これ以上あなたのやさしさに甘えるのはよくありあせん、あなたの人生を狂わせてしまうから。
 別れたいというのではなくて、別れなければならないのです、私たちは。
 要するに私は普通に生きていくのが難しい人間なのです。一般社会というものの中にいても、役に立たないのです。あなたも分かってるはずです。
朝、電車の中でも言ったけど、これまでたまらなさの中で生きてきました。主人は犠牲者だっていう無念がずっとあるのです。彼は絶対に死にたくはなかった、ましてやあんな形で。この世に大きな未練を残したまま独りで旅立ってしまった。だから私は、せめて彼を私の中で生かしておいてあげたいって、そんな思いを抱えて生きてきた。
 でもね、時間の経過と共に心というのは少しずつ形を変えてゆくものなのですね。何年も同じたまらなさを抱えながら生きるのはつらいもの。それで、本能的に苦しみを緩和する方向に心が適応しようとするのかもしれない。
 ある時、彼の死を受け容れている自分に気づいたのです。心が穏やかになっていました。初めはそんな自分に疑いをもち、許せませんでした。
 でも、いろいろな本を読んでいると、それはごく自然な変化だったんだって思えるようになった。つまり生きることと死ぬことには、そんなに大きな差はないことを知ったのです。怖れたりするから死は暗いわけであって、きちんと受け容れることができれば、もっと身近に感じられる。
 あなたもよく知っているとおり、私って、因縁とか必然性とか、その手のことを信じるタイプです。だから今回、あなたと二人で鎌倉に来たというのも、私の人生に予め組み込まれていたことだって思っています。あなたの部屋でテレビを見ながら鎌倉に行きたくなったところから、すべてが始まり、すべてが終わったのです。
 私、鎌倉には強い思い入れがあります。あなたには内緒にしてきましたが、じつは、私と主人にとって、鎌倉は決して忘れられない場所なのです。
 彼が亡くなった後によくここに来ていたのは、今思えば、彼の面影を探すためでした。すべてが昨日のことのように思い起こされます。

鎌倉物語 47

「つまり私をつなぎ止めていた人は、完全にいなくなったというわけ」
 明子はそう言い、ホットワインの入ったグラスに視線を落とした。
「私、死んでいった人のために生きなきゃって、そう言い聞かせてるのよ。でもね、そうやって肩に力を入れて生きてると、救いようのないくらいにむなしくなる時もあるの」
 僕は彼女の横顔をじっと見た。
「三十歳が見えてきた頃から、むなしさはどんどん深刻になってきてね。ほら、自分の人生の残り時間というものをそろそろ数えるようになるでしょ。そうするとね、いったい自分は何のために生まれてきたのか、その意味を考えてしまうのよ。私には両親も子供もいない、全くの孤独。この宇宙の中における存在意義などないんじゃないかって、そんなふうに思えて仕方なくなるのよ」

 鎌倉の夜は静かだ。これまで訪れたどの場所にもない生ぬるい、それでいて、からりとした空気が流れている。
 さっき明子が点けたラベンダーのキャンドルが揺れている。その香りに包まれながら、月明かりにうっすらと映し出された彼女の寝顔に向かって話しかける。
「なあ明子、君の口から『孤独』なんて言葉は聞きたくはないんだ。あの夜、仙台のバーで僕はよほど言いたかった。いつまでも死んだ人たちのことを考え続けるんじゃなくて、その人たちの分まで、これからの君の人生を全うしてみてはどうだろうと。それこそが君の存在意義じゃないかって。僕なら君をまるごと包み込むことができる。なぜかって、それは僕も同じように闇を抱えて生きてきたからだ。僕は小さい頃から死を怖れ、友達とも話題が合わなかった。さみしさを忘れるために目の前の愛に溺れ、その結果、僕を愛してくれた人を裏切ったことさえある。過去を振り返ると胸が痛くなる。自分は数え切れないほどの嘘をつき、そうして多くの人を騙し、傷つけてきたんじゃないかと思えてならない。君を愛するということは、そんな過去を埋め、今を生きるということでもあるんだ。だから僕は君がどうあろうとも君を心底愛したいと願っているし、またそれができると思っている」
 そこまで語りかけたとき、遠くに潮騒の音を聞いたような気がした。ドビュッシーは静かにフェード・アウトしていく・・・

 ふと目を開ける。今どこにいるのだろうと思う。
 キャンドルは最後まで燃え尽き、ラベンダーの香がごくわずかに残っている。
 咄嗟に身体を起こして枕元の時計に目を遣る。4:36という青緑色の数字だけが闇に浮かび上がっている。
 フットライトを点灯する。客室の様子がぼんやりと照らし出される。
 ベッド脇に置かれていた彼女のボストンバッグがまず見あたらない。クローゼットにかけてあったコートも、洗面台の上の化粧品も、それから履き慣れた感じのスニーカーもすべてなくなっている。部屋履きのスリッパはきちんと揃えて置いてあるし、ソファの上に脱ぎ捨てていた僕の服もそこにきちんと畳んである。僕は一瞬、最初から明子はいなかったのではないかと思う。
 頭の中に現実感覚が戻ってきたとき、しまったという思いが全身を駆け巡った。

鎌倉物語 46

 枕元の時計は一時を過ぎている。
 僕は明子の髪を撫でながら、かすかな寝息を立てている頬に口を付けた。やわらかくてぬくもりに満ちた頬だ。窓から差し込む月の光は寝顔を青白く浮かび上がらせている。
 そのさまをぼんやりと眺めていると、明子は半分生きているが、もう半分は死んでいるかのようにも映る。

「悪いことってけっこう重なるものなのよ」
 仙台のホテルのバーで、明子はぽつりとこぼした。サエキ氏の話が一段落ついた時のことだった。
「やっぱり、運ってあるんだと思う。そうして、悪い運は次の悪い運を引き寄せる。合併症みたいなものよ。だからそういう時は、できるだけ何も感じないようにして、ひたすら身を縮めて、それが去るのを待つしかないのよ」
あの時明子はそう言った。
「たとえば、紫式部とおんなじスタンスね。彼女も幼くして母を亡くし、愛する夫も失った。そんな悪い運が去った後に『源氏物語』を書いた」
 
 明子は、サエキ氏を亡くして半年も経たないうちに、今度は父親を亡くした。何者かによって殺されたのだ。自宅から出たところをピストルで撃ち抜かれた。経営していた建設会社の利権がらみの事件らしかった。警察も総力を尽くして捜査してくれはしたものの結局犯人を捜し当てるところまではいかなかった。真実は闇に葬られた。
 父を敬愛していたわけではなかった。だが、突然の父の死に直面させられた時、再びあの言葉を思い起こすことになった。
「その人との最大の出会いは、死別である」
 伯母は心から慰めてくれ、哀しみを共有してくれた。彼女は父の実姉で、父とは違って人の心の痛みに寄り添うことのできる人だった。
 しかし、もはやその優しさに溺れることもできないと思った。伯母には夫がいて、孫もいる。
 葬儀を終えた後で、明子は再び身辺整理をはじめた。新しい土地に移るのは今しかないと思った。それも、自分とまったくつながりのない土地に。
 書物を整理していると中学生の時に使った日本地図が出てきた。明子はふと手を止めて、それを畳の上に広げた。眼下にはすらりと長い日本列島が横たわっていた。
 直感的に、西に行きたいと思った。日差しが降り注ぐ温かな地に。それで、本州を西に向かって指でなぞると、山口に突き当たる。さらに南下して九州に上陸することも考えたが、指は山口で止まったままだった。
そこがどんなところか全くイメージできなかった。以前福岡に行った時に新幹線で通過したことはあったが、降り立ったことは一度もない。
 ふと心に浮かぶのは明治維新だった。吉田松陰や高杉晋作の肖像が脳裏に出てくる。それは俗世を越えた、どこか超然とした表情だった。
 経済的には心配なかった。国策の犠牲となった夫と実業家の父を亡くしたことで、一生暮らしても有り余るほどの潤沢な資金が手許に残されている。
 せめてそれらの遺産を有効に使いたいと思った。

鎌倉物語 45

 サエキ氏の勤務するプラントで事故が起きたのは転勤から二年後のことだった。
 その日の夕方過ぎ、帰りは遅くなるという電話がかかってきた。残業はしょっちゅうだったので大して気にもしなかったのが、夜になり、悪いけど今日は帰れそうにないという連絡にすり替わった時、不吉な思いがたちまち広がった。いつもとは違う切羽詰まった口調と受話器の向こうの喧噪が不安をあおり立てた。
「何かあったの?」と訊くと、彼はため息をつき、声を一段低くして答えた。
「しゃれにならないことが起きた」 
 その時の落胆にまみれた彼の声を明子は決して忘れることはない。

 事故の詳細については今でもよく分からない。何しろ、目に見えない科学の世界で起こったわけだから、どんなに分かりやすく解説されても明子の理解には限度があった。ただ間違いないのは、その事故によって夫は心身ともに、ずたずたに切り裂かれたということだ。
 結局その日から彼は三日間家に帰らなかった。マスコミは大きく騒ぎ立て、明子はテレビの画面をたよりに必死に奔走する夫の姿を想像するしかなかった。
 
 事故後はじめて帰宅したとき、彼はやつれ果て顔の半分を髭が覆っていた。目の前にいるのが本当に夫なのか信じられぬほどだった。
 それからまた約一ヶ月の間、彼はほとんど家に帰らなかった。そうして久々に帰宅した日の夜、彼はベッドの上で冷たくなっていた。
 亡くなる直前の彼はもはや言葉すらかけられぬほどに憔悴しきっていた。あらゆることに対して絶望しているように見えた。その夜は夕飯にもほとんど口をつけず、シャワーを浴びた後で頭が痛いと訴え始めた。病院に行くことを勧めたが、この頭痛はずっと続いているもので明日になれば治まるだろうし、何よりこんな大変なときに休むわけにはいかないからと言って、ブランデーをグラスに注いでそれを口にした。
「もう疲れたよ、おやすみ」
 そう言い残して彼は寝室に消えた。
 
 葬儀を終えた後も、明子はしばらく敦賀の家に残った。今思い起こしても何の記憶もない空白の数日間だった。
 その後伯母を頼って横浜に移ることにした。仏壇の脇に彼の位牌と遺影を置きそれに手を合わせる日々が続いた。おそろしいくらいに静かな日々だった。その時になって初めて夫は死んだのだということが身近な事実として寄り添ってきた。
 明子には、サエキ氏と出会う前のひとりぼっちの自分に逆戻りした感覚があった。とはいえ、彼との想い出だけははっきりと心に残り続けている。しかし、自分は紛れもなく孤独だ。この違和感はいったい何だろうと考えた。
 夫の前で手を合わせていたある時、大学時代の教授の言葉をふと思い出した。
「その人との最大の出会いは、死別である」
 夫をほんとうに愛するのはこれからなのかもしれない。夜、一人の床に就いたとき、涙が次から次へと、信じられないほどにたくさん流れた。

鎌倉物語 44

 母は自分を生んだ直後に出血が止まらなくなって、そのまま死んでいったのだという事実を父から聞かされたのは大学に入る直前のことだった。
 父は「母さんはな、おまえの命と引き替えに死んでいったんだ」と言い切った。そのとき父は酔っていて、ずいぶんと上機嫌で、むしろ誇らしげだった。
 その事実を聞かされても、明子はさほど驚かなかった。ある程度予想がついていたからだ。
 だが、部屋に戻って一人になった途端、涙だけは止まらなかった。まったく感情のない涙、それは痛みを伴わずにとめどなく吹き出る出血に近かった。

 そんな明子にとって、サエキ氏との結婚生活は、だから信じがたいほどに自由で幸福感に満ちていた。
 サエキ氏は仕事の関係でヨーロッパや北米に出ることが多く、明子も長期休暇をもらって彼に同行した。
 二人で異国の町並みを歩く時、しばしば人生設計を思い浮かべた。もうしばらくこのまま二人だけの生活を満喫したい。そのうち自分の心はもっと正常に戻ってゆくだろう。
 そして、やがては子供をもうけたい。できれば二人。そのことによって、母に対するせめてもの罪滅ぼしができるのではないかと思えた。
 
 ところが思い描いていた設計とは違う方向に人生が逸れはじめた。結婚して三年目のことだった。
 サエキ氏は機構の運営する原子力プラントに研究調査員として派遣されることになり、福井に転居することになったのだ。最小限の核燃料で最大限の出力を生み出すという実験的な試みで、実用化のために国が推進していた研究事業だった。
「やっぱり原発に飛ばされちゃったな」
 サエキ氏はたびたびそう漏らした。
 彼は目に見えない科学の世界に挑もうとこの分野に足を踏み入れた。大学でも大学院でもすべての情熱を研究に注ぎ込んだ。その結果、気がつくと当初の想定とはずいぶんとずれた場所に立っていたのだ。
 せっかく購入した市ヶ谷のマンションを明け渡し、二人は福井に移ることになった。
 だが、実際に生活してみると新天地は予想していた以上に住みやすかった。機構が二人に用意していたのは敦賀市の中心に近い新築の一戸建てで、最新の家財道具も一通り揃えられていた。二階に上がれば管理の行き届いた公園が眼下に広がり、その向こうには敦賀湾の青さを望むことさえできた。整然とした感じの敦賀の街にも好感が持てたし、普通に生活するには十分な設備が整っていた。
 交通の便も悪くはなく、特急を使えば京都まで一時間足らずで行くことができ、北陸自動車道に乗れば名古屋まで射程圏内に入る。二人で生活するには快適な環境だった。
 
 とはいえ、明子には嫌な予感が終始つきまとっていた。
 組織から期待されればされるほど、主人はどんどん自らを追い込んでいった。目つきは鋭くなり、頬は削り落ち、会話の大半を仕事の話題が占めるようになった。
 この世代の男の人が仕事に夢中になるのは世の常であるし、それ自体決して悪でもない。それは明子にも理解できた。ただ彼女の心が曇っていたのは、幼い頃の父親の記憶とオーバーラップする部分を感じたからだ。

鎌倉物語 43

 二人は高校時代のクラスメイトで、高校卒業後、大学進学のために揃って上京した。別々の大学に進学したものの、アパートは近くに借りることにした。
 大学三年の時に、いっそのこと同棲しようと考えたが、明子の父親が障壁となって結局卒業まで別々に住むことになった。
「どうせ彼は私の部屋で生活してたんだから、同じことなのよ」
 明子はホットワインを飲みながら僕に言った。

 サエキ氏との想い出を話す明子の顔は庭先に咲く春の花を連想させるほどに穏やかで、その瞳は森の奥に湧く泉のようにきらめいていた。まるで目の前に僕は存在しないかのように、彼女は立て板に水のごとく言葉を繰り出した。
「ほら、よくソウルメイトっていうでしょ。彼はまさにそういう存在だった。そして二人でいればいるほど絆は強くなる。私はあの時、前世というものを本気で信じてた」
 サエキ氏は大学で原子物理学を専攻していた。目に見えないモノを見ること、その手段として科学を用いる、それが彼の知的探求の根元的理念だった。
「科学はきわめて信用できる領域だ。僕がやりたいのは、科学はどこまで神に近づけるかという挑戦なんだ。もちろん『バベルの塔』を積み上げようっていうわけじゃない。人間は全能なんかじゃないと知っているからね。僕は科学の限界点というものをこの目で確かめたい。それによって、逆の立場から神を感じることができると思っている」

 サエキ氏が大学院に進学して半年後に二人は籍を入れた。
 彼は国の特別研究員として報酬を支給され、そのお金で十分に生活できるというのが明子の父を口説き落とす決め手となった。
 その後、大学院を出た彼は、原子力研究開発機構に就職した。それと同時に市ヶ谷にマンションを買った。
 朝、彼の出勤を見送る、その後で朝食の片づけと部屋の掃除をして、洗濯物を干す。それからラジオを聞きながら新聞を片手にコーヒーを飲み、身支度を整えて外に出る。朝の新鮮な空気を浴びながら自転車にまたがって住宅地の風を感じる。
 明子は近くの区立図書館の司書として働いていた。正規採用ではなかったが十分に満足だった。何より本に囲まれて一日を過ごすというのは幸せだった。図書館の中に立ち込める書籍の香りを鼻に吸い込むだけで心が落ち着いた。
 
 思えば、幼い頃から心の暗がりの中で息をしてきた。
 自分を生んで間もなくこの世を去った母親の影が心の内側に広がっていたのだ。実業家である父は母の死について何も語らない。
 そんな父の態度はまだ物心のつかない明子の孤独をより強固にした。父は地元の高校を出た後すぐに大手の建設会社に入社し、東京の本社で部長まで上り詰めた後、独立した。父が興した会社はたった数年で大企業になった。家には実に多くの人が出入りし、明子はいろいろなモノをもらった。しかし、それらが深く心を満たすことはなかった。
 小中学校時代は転校を繰り返した。どこへ行っても父は忙しく、ひとりぼっちの時間を過ごさなければならなかった。その間彼女はずっと本を読んだ。心の隙間を読書によって埋めるしかなかった。

鎌倉物語 42

 すべてが終わった後で僕たちは並んでシャワーを浴びた。
 それからバスタオルで互いの体を拭き、再び客室に戻った時にはキャンドルのラベンダーはよりくっきりとした香りを漂わせていた。
 明子はベッドにつくやいなや、すやすやと寝息をたて始めた。
 彼女は週の半分以上は僕の部屋に来るが、一度も泊まったことはない。だから彼女の寝顔をこんなに間近に見るというのは、どこか新鮮な気がする。
 彼女の髪を撫でていると、まるで髪の毛が何かを語りかけてくるようだ。
 鎌倉に来てからの豹変ぶりには、サエキ氏が絡んでいることは分かりきっている。君は二十二歳からサエキアキコという名前に変わった。そして今なお君はサエキ氏のことを深く愛し続けている・・・
 
「ずっと隠しておくのも、それはそれでつらいことだから」
 明子がそれまで固く封印していた過去について口を開いたのは、出会ってから一年以上経った頃だった。
 その時僕たちは仙台のホテルにいた。季節は晩秋で、二人で行く初めての旅行だった。とにかく行ったことのない場所に行きたいという明子の要望から、いろいろと候補地を挙げて一つ一つ検討した結果、最後に残ったのが仙台だったというわけだ。
 僕たちは仙台空港から直通のリムジンバスで市内に入り、仙台駅近くのホテルにチェックインした後で、JRで塩釜に向かった。外はちらほらと雪が舞っていて、乗客の様子や喋る言葉からも僕の思い描いていたのとそう変わらない東北の風情があった。
 塩釜の駅で降車し、港に隣接した大きな海産物の直売所で握りこぶしみたいな岩ガキを食べた後、遊覧船に乗って松島をめぐった。
 明子が過去を語ったのはその夜のことだった。

 僕たちはホテルの地階にあるショットバーの隅の席に陣取った。客もまばらで妙に明るく、ホテルのバーの割にはあまりぱっとしない店だったが、かえってその雰囲気が明子を安心させたようにも見えた。
「あなたはもう知っていることだろうけど、私、結婚を経験してるのよ」
 彼女は意外にもさらりとそう言った。
「でも今はもう、その人はいないの」
 そう続けてから、とても長い沈黙があった。彼女はその間ずっとカウンターに映る僕の影に視線を落としていた。今でも忘れることのない、丸い石のような瞳だった。
 それから自らが作った沈黙に小さな穴を開けるかのようにつぶやいた。
「亡くなったの」

鎌倉物語 41

 思っていたよりも早く、明子はバスルームから出てきた。どうやらシャワーを浴びただけでバスタブには浸からなかったようだ。彼女は鏡台の前でドライヤーをかけ、それが終わると化粧水と乳液を肌に叩いた。
 ベッドに戻ってきた時、シャンプーの香りがふわりと広がった。髪に巻いていたバスタオルを丁寧に畳んでソファの手摺りに置き、ふっと息をついてからボストンバッグの中に手を入れた。取り出したのはキャンドルだった。
 彼女はそれを慣れた手つきでテレビの横に据え、マッチで火をつけた。
「これがあるとよく眠れるの」
 明子はそう言いながらベッドに戻ってきた。
 電灯をすべて落とした後、キャンドルの明かりだけになった。炎の色に濡れた壁と天井がゆらゆらと揺れている。
 間もなくしてほのかなラベンダーの香りが広がる。
「海を見ながら寝ようか」
 明子は言う。
 僕は起き上がってカーテンをすべて開ける。今や全貌を露わにした月はずいぶんと西に傾いて夜空に光を当てている。その光を見ながら明子のベッドに入る。ちょっと寝返りを打っただけで転げ落ちてしまいそうなベッドだ。
「このホテルにはダブルルームの設定がなかったんだ」
 僕は弁解した。
「せめてセミダブルかと思っていたけど、まさかシングルベッドだとはな」
 明子は僕の方に顔を向け、「私好きよ、このホテル」とささやいた。「きっと、今日、ここに来るべくして来たんだと心からそう思える」
 彼女はこの旅で何度も口にした台詞を再び言って、静かに身体を寄せてきた。
それから僕たちはしっかりと抱き合った。僕の部屋で抱き合うときよりも、物語性を感じた。湘南の海が演出しているのかもしれない・・・

 彼女のシャツを脱がし、その背中に唇をつける。彼女は軋むような声を上げる。
白い背中は窓の外からかすかに差し込む月の光を受けて、神秘的に艶めいている。
海上でドビュッシーの音楽が聞こえる。ピアノを弾いているのはスタニスラフ・ネイガウス、明子が僕の部屋でよく聴く演奏だ。
 甘美な調べに乗って、僕は、後ろからそっと、明子の中に入った。彼女の方もその準備はとうにできていた。
 明子の背中を見下ろしていると、僕はふと天国を感じた。幼い頃から憧れ続けた無上の境地がまさにここにある。僕はいつにもまして我を忘れてしまった。
 明子の方も積極的に求めてきた。円覚寺での饒舌、寿福寺での明るさ、それからタクシーの中での涙。今日一日だけで日頃見ないほどの感情の起伏を繰り返した、その不安定さのすべてがぶつけられるようだった。
 彼女は日頃出さない声をあげた。そのうち、この女性が果たして明子なのか疑わしくさえ思われた。彼女の魂は交換可能なカートリッジを連想させる。彼女の身体には様々な魂がセットされる。
 お願いだ、これ以上ぶれないでくれ。君はもう、永遠に僕のものだ!

鎌倉物語 40

・・・僕は何者かに迫られている。こんなにもぬくもりのない、それでいて執拗にまとわりついてくるもの。その正体は一体何か?
 ついさっきまで心地よさに包まれていたはずの僕は、一転して全く不快な世界に堕ちている。しかもこいつは体温まで奪おうとする。僕は必死にそれを引き剥がそうとする。すると今度は顔に貼りついてくる。僕の苛立ちを逆撫でするかのようだ。
 たまらず目を開ける。すると、すっかり冷たくなったシャワーカーテンが僕の体にぴったりと絡みついている。
 湯にはまだぬくもりが残っているものの、ずいぶんと長い間湯船の中で寝ていたような実感がある。
 僕は熱めのシャワーを浴びてもう一度身体の芯から温め直し、それからバスタオルを羽織ったままバスルームを出た。
 
 部屋に戻ると、灯りはさっきよりも落とされているようだ。明子の名を呼ぶ。声は部屋の中に力無く吸収される。
 彼女はいない。思わず彼女のボストンバッグを探す。それはベッドの下に置いてある。ちょっとした用事で部屋の外に出たのだろう。
 僕は身体をきちんと拭き、ルームウエアに着替える。明子が戻って来るまでテレビでも見ようと電源を入れる。世界の経済情勢はますます悪化し、金融不安は日本にも飛び火するのではないかということをキャスターが他人事のように伝えている。
 画面の隅に表示された時計は二十三時十六分を示している。風呂の中でずいぶんと寝てしまったものだとうんざりしてしまう。
 冷蔵庫を開けてみる。ビールはあと一本残っているが、もっとアルコールの強いものが飲みたくなる。それで僕はホワイトホースのミニボトルを取り出し、冷蔵庫の上に置いてあるコップに注いで飲んだ。「氷がお入り用の方はフロントに申しつけください」というメモが添えてあるが、あの支配人に頼み事をする気などとうてい起こらない。
 
 明子が部屋に戻ってきた時には、ウイスキーは身体じゅうに浸透していた。
 彼女は部屋に入ってすぐにソファに腰掛け、放心するかのように宙を見つめた。
「どこに行ってたんだ?」
 僕が聞くと、明子は僕がここにいることにたった今気づいたかのようにこっちを向いた。
「あ、うん、ちょっと、下にいた」
「下にはフロントと売店とレストランしかなかったと思うけど」と僕は言った。
「そう。フロントとレストランに行ってたの」
 明子はそう答えたが、僕には何のことやらさっぱり分からなかった。それは自分が酔っているせいだろうかとも顧みたが、どうもそれだけではないらしい。
「フロントとレストランで、何をしてたの?」
「パソコンを借りて調べ物をしてたら、遅くなっちゃったのよ」
「あの気難しい支配人に借りたのかい?」
「でもあの人、話してみれば意外とまともな人よ。それに奥さんもいて、とても気の利く人だったわ」
「なるほど」
 僕は語尾を上げて言った後、さらに質問をしようかどうか考えた。さっきから君は一体何を調べようとしているのか? それは今わざわざ調べなければならないことなのか?
 だが彼女は、ベッドの前を素通りして、バスルームへと消えた。

鎌倉物語 39

 部屋は廊下の片側に五つだけ並んでいる。全ての部屋が南を向くように、つまり海が見えるように設計されているのだ。僕たちは一番奥にある二一号室のドアを開ける。
 照明をつけるとアイボリーで統一された客室がふわっと浮かび上がる。ベッドが二つとソファが一つ。ローボードの上にはテレビが据えてある。年季の入った調度品の中にあって唯一テレビだけが新しく黒光りしていて、よそよそしく立てられている。
 リュックサックを床に置いてベッドに腰掛けた時、明子はそっと窓際に歩み寄りカーテンを開けた。外には夜の湘南海岸が広がっている。
「きれいよ」
 明子は小さく声を上げる。僕はやおら立ち上がり、彼女の肩越しに海を見る。ペンション風の建物といい、無愛想な支配人といい、予想とはかけ離れているが、目の前に広がる景色だけは期待を裏切っていない。
 僕は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出し、明子と乾杯した。
「それにしても変わった支配人だったね」
 明子はふだんの表情を取り戻していた。
「ある意味、今回の旅にはおあつらえ向きかもしれないな」
 僕は窓向きに置かれたソファに腰掛ける。あの支配人のおかげで僕も現実感覚を取り戻すことができた。
 目の前には明子がいて、海を見ながらビールを飲んでいる。僕は彼女の姿を満足げに眺めている。ビールのくっきりとした苦みが全身を駆け上がってゆく。
 
 それからしばらくの間僕たちはおのおのの思索の世界に浸る。
 明子は過ぎ去った日々に思いを馳せている。僕はというと、これから先もずっと明子と一緒にいたいという想いを再認識している。

「お風呂に入ってきたら」
 明子が言ったのは、しばらく経ってからのことだった。缶ビール一本で全身が温かくなるほどに僕は疲労していた。
 バスタブに湯を張っている間にビールをもう一つ空ける。
 明子は自分のベッドに腰掛けて携帯電話の画面に視線を落としている。コートを脱ぎ、帽子も眼鏡も取った彼女はふだんの姿に戻っている。
 タクシーの車内で見た時には薄雲に隠れていた月は、今やその上半分を晒している。夜空と接している部分は薄緑の神秘がかった光でにじんでいる。
 僕は残りのビールを飲み干してからバスルームへと向かう。
 その間、明子はずっと携帯電話の画面を見つめている。何かを調べているようだ。もちろん、何をそんなに熱心に調べているのか気にならないわけはない。
 だが、僕はもう一度心の中で唱える。
 今の僕にできることは、待つことだけだ、と。
 
 何の変哲もないユニット・バスの湯船に浸かり、膝を立てたままシャワーカーテンを引く。少し熱めの湯が下半身から順序よく温めてゆく。オレンジの照明が心身ともに疲れた僕の内部にじんわりと侵入してくる・・・

鎌倉物語 38

 僕に続いて明子もタクシーを降りる。ホテルから漏れる灯りに照らし出された彼女の顔はやはり泣いた後のそれだ。
 ホテルの前は道路を挟んですぐに由比ヶ浜海岸が広がっている。遊歩道に設置してある外灯が、白砂の滑らかな浜辺を幽玄に浮かび上がらせている。明子は海に向かって立ち、潮風を吸い込む。
 僕も彼女に倣って深呼吸する。ところがそれと同時に立ちくらみに襲われ、膝の力が抜けてよろけてしまう。
「大丈夫?」
 これは一体誰の声だろうと思う。
 明子は慌てた様子で僕の腰に手を宛ってきたが、膝の力はすぐに回復したので僕はそれを制した。
「今日はずいぶんと歩かせちゃったから、疲れたのね、きっと」
 明子はそう言った後、目の周りに残っていた涙をハンカチで拭き取った。

 エントランスの自動ドアを抜けると、その先にはやわらかな白熱灯に照らされた空間が待っている。
 左手にちょっとした土産を売る一角があり、その奥はレストランになっている。テーブルのセットが十ばかり置いてあるが客の姿は見えない。絨毯の埃臭さだけがそこはかとなく漂っている。何から何まで古ぼけた雰囲気だ。
 一人立てば十分な広さのフロントに置いてある呼び鈴を鳴らすと、少し間を置いてから初老の男性が現れる。白髪はきちんと整えられ、きりっとした目をしている。白いオックスフォード・シャツにブラックジーンズといういでたちだ。
「ご予約の方で?」
 支配人とおぼしきその男性は言う。僕は頷く。
「チェックインはたしか、七時のご予定だったと存じますが」
 支配人は何かを書きながらそう言う。いかにも不機嫌な様子だ。
 フロントの奥の壁に掲げられた時計は八時半を過ぎている。
「できれば事前に電話でも入れて頂けますと助かるんですがね」
 支配人はなじるような調子で畳みかける。開いた口がふさがらない僕を、明子も少々困った表情で見ている。
 支配人をすぐ前にしてチェックインのサインをしたが、指の動きをいちいち監視されているようでじつに書きづらい。
「朝食は何時になさいます?」
 彼はたった今僕が書いたものに冷淡な視線を落としながら事務的な口調で訊いてくる。
 僕は「とりあえず7時で」と言う。すると彼はぱさついた声で「かしこまりました」と応えた。それから右手を差し出して付け足しのように言った。
「朝食はそちらのレストランでお取りください。ラストオーダーは8時30分ですので、それまでにはお越しくださいますよう」
 支配人はそう説明した後で、シルバーのトレイの上に部屋の鍵を差し出した。僕はそれを受け取り、エレベーターを探す。だがどこにも見あたらない。それもそうだ。このホテルは二階建てなのだ。僕たちは自分で荷物を持って売店の奥の階段を上がることにする。

鎌倉物語 37

 マクドナルドを出ると、背中の汗が冷たく感じられた。
 僕たちは駅前でタクシーを拾いホテルへと向かった。海が見たいという明子の要望と、人混みがあまり得意ではない彼女の気質に鑑みて、それらの条件を満たしそうなホテルをウエブ・サイトで探し予約しておいたのだ。
 タクシーは鎌倉の街を両断するように走る直線道路を南下する。
「若宮大路ね。鎌倉幕府が作ったメインストリート」
 明子は窓の外に向けて首を傾けながらつぶやく。
「たしか、この道を戻ったら鶴岡八幡宮があるんだよな」
 僕は鎌倉の地図を思い浮かべながら、明子に言う。
 鶴岡八幡宮といえば源実朝が公暁に首を取られた場所でもある。振り向いてリアウインドウ越しの光景を確認するが、目に飛び込むのはどこまでもまっすぐな道路とその上を走る車のヘッドライト、それから道の両側に連なる街の灯りだけだ。
 明子はそんな僕の姿を見て、ぽつりと漏らす。
「さすがにここからは見えないでしょう」
 僕は前を向き直す。若宮大路は想像以上に長い。この道を築き上げた往時の人々の苦労に思いを馳せる。
 するとタクシーは道路にそびえ立つ巨大な鳥居の横を通る。つまりこの道路自体が八幡宮の参道になっているというわけだ。
「君は何度か行ったことがあるんだろうね、鶴岡八幡宮に」
 僕がそう尋ねると、明子は視線を僕の喉元に移して何かを言いかけたが、途中でやめた。それからしばらく彼女はシートにもたれたまま何も言わずにいた。
 その時、フロントガラス越しに夜の海が見えた。薄い雲には月明かりが透けていて、その光がやんわりと水面に浮かんでいる。初めて見る湘南の海だ。僕は再び明子に目を遣る。
 ところが彼女の瞳には涙が浮かんでいる。最初は光の加減でそう見えただけかとも思ったが、涙の雫は眼鏡の下から顔を出し一筋の線となってゆっくりと頬を伝っている。
 明子は、何でもないのよ、ちょっと目にゴミが入っただけだからと言い、眼鏡を取ってハンカチを軽く目に当てる。
 初めて見る明子の涙だった。
 彼女はハンドバッグから取り出した専用のケースに眼鏡をしまった。それから窓の外に目を遣り、何度か小さく鼻をすすった。その視線の先に僕はいない。明子は見えない何かに向かって無言のうちにつぶやいている。
 なすすべのない僕は、海に視線を投げる。広く静かな海だ。長い海岸線に沿って等間隔に続く外灯がきらめいている。その光景を眺めながらつくづく思う。今の僕にできるのは待つことだけだと。
 いや、これからもずっと、僕は待つことしかできないのかもしれない。

 タクシーは交差点を右に折れ若宮大路に別れを告げる。
 予約しておいたホテル「NAGISA」はそこから少し走った所にあった。
 海岸を望むこじゃれたプチホテルをイメージしていたが、実際はどこか古臭さが漂っていて、ペンションに近い佇まいだった。
作者

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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