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鎌倉物語 最終回

 年季の入ったマークⅡワゴン、鶴岡八幡宮、倒れた大銀杏、それから灰色の空。
 あの時僕は失意のど真ん中にいた。
 ああ、やっぱり明子は僕から離れていくのだと半ば諦めてもいた。
 でも、だからこそ、彼女を見つけた瞬間、開き直ることもできた。
 僕は、ここぞとばかりに思いのすべてを彼女にぶつけた。過去ではなく未来を見つめてほしいと主張した。
 それから、明子の腕を引っ張り、強引にホテルに戻した。

 支配人の作った朝食、心のこもったサラダとオムレツ。

 部屋に戻ってから、明子は山本氏の話をした。
 山本氏は『静かな散歩道』という写真集を残して、すでにこの世を去っていた・・・

 ふと明子に目を遣る。彼女は窓側に頭を傾けてすやすやと眠っている。深めにかぶった帽子は座席のヘッドレストに引っかかって脱げそうになっている。
「なあ明子」
 心の中で彼女に向かってつぶやく。
「今回の旅でいろんな人と出会ったけど、その中での一番は君との出会いだったかもしれないよ」
 僕は帽子の向きを整えてやる。

 再びボールペンを手に取り、記録を再開する。
 鎌倉駅、江ノ電、鎌倉大仏、長谷寺。紫陽花の株、見晴台、十一面観音、それから地蔵に囲まれた小さなスペース。そこで僕たちは強く抱き合った。ついさっきのことだ。
 魂が溶け合って一つになったような感覚は今でも胸を温め続けている。
 そういえば明子は、僕の部屋で、ケーブルテレビの旅番組を見ながらこんなことを言っていた。

「鎌倉って不思議な街なのよ。北と南で全然違うの」

 実際に足を運んでみると、なるほど深くうなずける。
 その北と南の違いは、僕と明子の心の陰と陽を対比させ、象徴化しているようにも感じられる。

 のぞみは名古屋駅に停車する。
 僕たちの車両からも多くの人たちが降車し、その後で同じくらい多くの人たちが乗り込んでくる。彼らは訓練された鳥のようにさくさくと自分の席に着き、やはり思い思いに時間を潰し始める。
 小さな手帳には数ページにわたる記録が出来上がっている。
 最後に今日の日付を記し、それから水色の表紙には「鎌倉物語」という題を付ける。

 のぞみは再び静かに動き出す。
「次の停車駅は京都」というアナウンスが、列車内の空気をかすかに揺らす。  
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鎌倉物語 76

 目を閉じた途端、この二日間のさまざまな記憶がまぶたの裏側に甦ってきて、かえって頭が冴える。サエキ氏や山本氏が近くでささやきかけてもくる。この新幹線のどの乗客よりも強い生命感をもって。
 僕はいったん目を開けて、鼻から息を吸い込む。
 依然として、窓には雨粒の線が突き刺さっている。
 軽くこめかみを押さえ、再びまぶたを閉じる。
 
 すると今度は明子と二人で訪れた寺々の風景のチャネルに切り替わる。
 建物はもちろん寺に漂う空気さえも再現される。僕たちにとっての鎌倉は、離れた後になってますます印象に訴えかけてくるようだ。

 ふとアイデアが浮かぶ。
 この旅で出会ったものを手帳にしたためておこう。
 僕と明子にとっておそらくは決して忘れることのないであろうこの旅を、今のうちに、できるだけ正確に記録しておこう。

 僕は席を立ち、荷台に置いたリュックサックを下ろす。そうして、サイドポケットに入れていた水色の手帳を取り出す。
 この手帳は僕が勤務する社会保険事務所で年金のキャンペーン用に配られたものの残部だ。捨てるにはもったいなくて何かに使うこともあるだろうとひそかにリュックに忍ばせておいたが、まさかこんな所で役に立とうとは思ってもみなかった。
 さっそく表紙をめくり、最初の行に「北鎌倉駅」と書く。
 その文字を見るだけで、簡素な駅舎が辺りの緑とともに生き生きと思い起こされる。
 円覚寺、鎌倉街道、無窓庵。そこでビーフシチューを食べながら僕は美咲と歩いた京都を思い浮かべ、可南子のことを考えた。
 無窓庵を出てから亀ケ谷坂の切通しを抜けて北鎌倉を後にし、寿福寺の閑散とした山門をくぐった。
 境内の深部には多くのやぐらが集中し、実朝の墓もあった。山本氏という不思議なカメラマンが現れ、寿福寺は中原中也の最期の場所でもあるのだと教えてくれた。
 そこを去ろうとした時、突如として線香の煙が立ち込め、やぐらの中にしゃがみ込む明子の幻影を見た。
 山本氏はシャッターを切りながら、彼女は生きながら死んでいるのだと説明した。そしてその山本氏はすでにこの世にいない人物だと分かったのが今朝のことだった。
 寿福寺を後にした僕たちは鎌倉駅前のマクドナルドで食事をとった。明子は憑き物がとれたかのように饒舌だった。

 ところがホテルへ向かうタクシーの中で彼女は泣いた。
 
 ホテル「NAGISA」、古い絨毯、磯の香り、へんな支配人・・・
 僕たちはラベンダーのキャンドルを点け、月明かりの中で一緒に寝た。ほのかに照らされた明子の寝顔を眺めながら、僕もいつの間にか眠りについた。
 だが、目が覚めた時、彼女はいなかった。テレビの横に残された手紙。サエキ氏への思い。
 僕は着の身着のままで部屋を飛び出した。助けてくれたのはあの支配人だった。

鎌倉物語 75

 僕はつないだ明子の手を意識する。その手は、いつもよりか細く感じられる。
 とはいえ、明子の手を通じて、彼女が今ここにいてくれることのかけがえなさが胸にしみる。今朝、彼女は一人でホテルを出たのだ・・・

 電光掲示板が「ただいま熱海駅を通過」と表示した時、明子は「そろそろ富士山が見えるかな」とつぶやいた。
 そういえば昨日来るときには二人とも富士山を見過ごしてしまっていた。眠っていたのだ。
「でも、この天気だから見えないね、きっと」
 明子は、窓越しに空を見上げながら言う。

 そのうち、今度は三島駅を通過する。
 富士山を眺める絶好のポイントのはずが、全く姿を現さない。そこに何かがあること自体が信じられないほどに曇天が厚く覆い被さっている。
「ねえねえ、知ってた?」
 明子は外を見たまま言う。
「三島由紀夫ってね、この三島駅から見える富士山の雪から思いついたペンネームらしいわよ」
「三島って、皇居に向かって割腹自殺したあの人だよね?」
「そう、小説家とは思えないほどインパクトの強い人。たしか、一緒に新幹線に乗っていた恩師が、窓の外の富士山の雪を見て、君が作家になるのなら三島由紀夫というペンネームでいけよって助言したっていう話を読んだことがある」
「じゃあもしその時富士山に雪が積もってなかったら三島富士夫だったかもしれないな」
 そう言うと、明子はこっちに顔を向けて薄く笑った。
 僕は、この新幹線に乗って恩師の横で富士山を眺める若かりし三島由紀夫を想像した。だが、そのイメージはどうしても割腹自殺直前の血生臭い映像に収斂《しゅうれん》されてしまう。
 そうしてその映像は、鶴岡八幡宮で首を取られた実朝をも連想させる。
 今は死に関連することは考えたくない。それで僕は、三島由紀夫の想像を打ち切った・・・ 

 浜松駅を通過した時、もう富士山は見えないと諦めがついた。明子も少し残念そうな様子で窓の外を眺めている。
 僕はそんな彼女に声を掛けようとした。
 また次に来たときに見られるといいね、と。
 しかし彼女の横顔には、ただ富士山が拝めなかったということに落胆しているだけではない何かがあるような気がした。
 窓ガラスに映る明子の瞳はどこまでも虚ろだった。そうして彼女はいつの間にやら顔を窓に向けたまま眠りについてしまった。

 僕はつないでいた手をそっと離した。
 
 明子は疲れている。僕もそうだ。だから彼女がどんなことを考えていたのかはよけいに分からないし、詮索したってしようがない。
 えてして疲れているときにはどうしても物事を悪い方に捉えがちだ。だから彼女の心の中について何も考えずにこのままそっと寄り添っておこうと思う。
 それで僕も、息を細長く吐き出してから、シートに背をもたれて軽く目をつむる。
 のぞみは静かな振動音をたてながらも猛スピードで西へと向かっている。

鎌倉物語 74

長谷駅から江ノ電に乗り、再び鎌倉駅に戻ってきた時には、雨は本降りになっていた。
 僕たちは、反対側のJRのホームにちょうど待機していた横須賀線に乗った。
「鎌倉」と書かれた標示板が、発車と同時にゆっくりと後ろに流れて行くさまを、僕は最後まで見届けた・・・ 

 北鎌倉駅に停車した時には円覚寺の森が雨に濡らされているのが見えた。ここを訪れたのはずいぶんと前のことのように感じられる。
 青空の下、明子と二人で石段を上がったのは昨日のことだ。その光景を思い出すと、まるで映画のエンディングを見ているときのような、ノスタルジーに襲われ、胸が締め付けられた。

 新横浜駅に着くと、行き交う人の数が格段に増えた。
 平日ということもあってスーツを着たサラリーマンたちが黒い渦のようにせめぎ合っている。
 僕たちは人混みを避けながら、どうにか「みどりの窓口」にたどり着き、新山口駅行きの切符を手にした。
 ホームへと上る長いエスカレーターに運ばれながら、僕たちは顔を見合わせてため息をついた。
 おそらく僕たちは、夢から醒めたような感覚を共有していたのだ。

 夢・・・

 エスカレーターが真ん中まで来たとき、天と地がひっくり返ったような錯覚を感じた。目の前に繰り広げられる生々しい現実こそが、幻のように思えてきた。
 僕たちは本当に、さっきまで夢の中にいたのかもしれない。

 ホームに置いてある自動販売機で緑茶を買い、時間通りに滑り込んできた「のぞみ」に乗り込む。
 指定席はほぼ満席で、明子を窓際のシートに乗せた後、僕は通路側に腰を下ろした。車内は空調が効いているものの、どことなく湿っぽい。
 新幹線が動き出す前から僕たちは手をつないだ。長谷寺から続く胸のぬくもりは依然としてある。目の前の情景が幻であろうが何であろうが、このぬくもりだけは消えやしない。
 明子の方を向くと、彼女も僕を見た。彼女は疲れた笑みを浮かべている。
 
 のぞみは静かに加速し始める。それに伴って新横浜駅周辺のビル群がドミノのようにぱたぱたと後ろに倒れてゆく。
 分厚い窓ガラスには雨粒が頬を伝う涙のように転がり、やがて弾き飛ばされる。

 僕はシートをいくぶんかリクライニングさせ、車内の様子を確かめる。

 指定席の乗客はおしなべて静かだ。
 新聞を読んだりスマートフォンを指でなぞったり、思い思いの時間を潰している。車両入口のドアの上では電光掲示板がさっそくニュースを流し始める。飲酒運転で爆走した車が通行人を次々とはねたり、北朝鮮がミサイル実験をしたり、どこかの銀行が破綻して大騒ぎになっているようだ。

 それにしても、僕の周りにいるのは誰だろう? 彼らは僕と同じ新幹線に今乗っている。少なくとも、それほどの縁がある。ならば僕たちはこのハイテクマシンで一体どこに行こうとしているのか?

「人生はつかの間の灯さ」
 サエキ氏の声が脳裏にささやかれる。

鎌倉物語 73

 観音堂の左には、何やらマニアックな通路が続いている。
 そこから先は、参詣者の数も急に少なくなる。奥に群がる竹林の脇には萩の花がちらほらと顔を覗かせているのが見える。
 明子は慣れた足取りでその道を進み、「経蔵」と記された小さな建物の裏手に入る。この区域は墓地になっていて、途端にひっそりとする。
 さらにその奥には石段が現れ、両側は紫陽花の株で覆い尽くされている。株たちは来年の開花の時期までじっとここで息を潜めているかのようにも見える。

 石段を登り切ったところには猫の額ほどの展望スペースが用意してあって、見晴台よりもさらに高い地点から由比ヶ浜を見渡すことができるようになっている。ここまで来ると、もはや人の気配はない。だからか、さっきまでは気づかなかった潮の香りが鼻の奥にまで入ってくる。

 足下にはどういうわけか多くの地蔵が置いてある。しかも、大きさや苔の生え具合によって、きれいに整理整頓してあるようだ。
 そういえば、寿福寺の裏山にも地蔵が並んでいたことをふと思い出す。
 明子はその場所の真ん中で僕の胸に顔をうずめてきた。
 僕も彼女の頭を撫でながら明子の体を自分の胸にあてがった。彼女のぬくもりが押し寄せる波のように体に浸透する。僕たちだけ風景から切り取られたような感覚をより明確に感じ取る。
 見渡すと、グレイな海面の至る所に、波飛沫が上がっているのがよく見える。
その時だった。僕は、デジャブの感覚に襲われた。
 いや、これはデジャブではない。僕の脳裏に忍び込んできたのは、他でもない、源実朝の和歌だった。

大海の磯もとどろによする波 われてくだけて裂けて散るかも
 
われてくだけて裂けて散るかも・・・

 実朝の言葉が僕の胸に何かを語りかけてこようとしたまさにその瞬間、明子が僕の胸から顔を離し、キスを求めてきた。
 僕は半ば慌てて彼女の動きに呼応した。
これが本当に明子なのかと疑うほどに積極的だった・・・

 下の方で何やら人の声がする時まで、僕たちはずっと強く抱き合い、キスをした。
 体を離した時、明子は足元を見ながら言った。
「こんなたくさんのお地蔵さんに見つめられてたなんて、気付かなかった」
「僕はずっと知ってたけどね」
 そう返すと、彼女はどこか恥ずかしそうに笑った。
 これこそ明子本来の表情だと僕は思った。
 
 ふと海を眺めると、実朝の魂がそこにゆっくり溶けていくのが分かった。
 
 いや、それは、山本耕二氏の魂かもしれなかった。

鎌倉物語 72

 建物の内部は薄暗いが、観音像の金色だけは外に漏れている。足を踏み入れると本尊は静かに鎮座している。僕はその大きさに言葉を失う。
 明子も「わぁー」と綿飴のように繊細な声を上げる。十一面観音は右手に杖を、左手には花を挿した瓶を持っている。鎌倉大仏の生真面目さとは対照的だ。
 その慈悲深い表情にさらされた時、ふわりと宙に浮いたような感覚にとらわれる。そして明子をこれからも愛し続けるパワーをもらったような気がする。
 僕たちがここに来たのは偶然なんかじゃない。ここに運ばれてきたのだ。僕はもっと自信をもってもいいのではなかろうか。
「大丈夫?」
 明子は僕の顔を覗き込む。僕はもちろん大丈夫だと応える。十一面観音は鈍い金色の光を発し続けている。

 本尊に礼拝した後、長谷寺の境内をひととおり見て回り、再び見晴台に戻ってきた。相変わらず空はけだるい様子で、海も空に倣うかのように、同じ表情を浮かべている。
「ねえ」
 明子は由比ヶ浜を見ながら言う。
「話は戻るんだけどね、よくよく考えたら、北条政子ってすごい女性だと思わない?」
 僕は彼女の横顔に視線を遣る。彼女は政子の人生に自らを重ね合わせていることはすぐに分かる。夫の頼朝に続いて息子の実朝までも殺された悲しみに共感しているのだ。
「政子は尼将軍《あましょうぐん》って言われてたのよね」
 明子はそう続けた。
 政子が落飾《らくしょく》したのは頼朝の死後だった。そうしてダミーの将軍を立てながら、自らは執権として政治の実権を握り、幕府の安定を図ったのだと。
「なんだか不可解ね」
 明子はそう言い、帽子のつばを少しだけ傾けた。
「出家して仏門に入った女性が政治の世界に入るなんて、矛盾してない?」
「僧侶になった人間は俗世を絶つことが原則だって言うこと?」
「そう」 
 それについて考えてみる。たしかに僧侶が政治の実権を握るなど、今でも考えにくい。
「彼女も生きながら死んでいたんじゃないかしら」
 ふと明子の方を見る。彼女も僕の方を向く。
「いや、むしろその逆だと思う」
 僕は言う。
「きっと北条政子は、死を覚悟しながら、その分力強く生きてたんだよ」
 すると明子は、僕の顔から目を離して海の方に視線を送る。海面には数艘のヨットと、上空にはカモメがふらふらと漂っている。
 彼女はしばらく何かを考えた後で、ふっと鼻で笑う。
 明子の心に何が浮かんだのか、僕には想像できない。
 だが、僕は動じない。それより、自分の言いたいことを言ったという満足がある。
 返し技で一本取ったような満足だ。

鎌倉物語 71

 そんな自意識の堂々巡りを繰り返しているうちに、ある不思議な感覚が遠心分離されて心に残る。

 僕たち二人だけがこの風景から完全に切り取られている。
 
 ふと明子に目を遣る。彼女は何かを考えながら海を眺めている。サエキ氏との想い出に浸っているのだ。
 過去に二人はまさにこの場所に立ち、一緒に海を眺めた。その時の幸せに満ちた甘美な時間を明子は今追憶している。だが明子が何を考えていようとも、僕は動じない。
 人を愛するということは、たぶん、こういうことなのだ。

「ねえ」
 明子が口を開いたのはずいぶん経ってからのことだった。
「さっきの静御前《しずかごぜん》の話だけどね、彼女と義経の間に生まれた子供は、この海に捨てられたのよ」
 相変わらず彼女は穏やかな表情をしている。
「頼朝の命令だったの。もし女の子だったら助かっていたようだけど、あいにく、男の子だったの」
「義経の魂を引き継いで、リベンジしてくると思ったんだな」
 僕はそう言った後、大きく息を吸った。空気はどことなく生ぬるい。

 この海は学生時代に友達と訪ねたペナレスの風景とどこか重なるところがある。
 ガンジス河の畔には死体が焼かれる炎と臭いがすべての風景に染みついていて、灰はボランティアたちの持つスコップによって川に流される。川で沐浴をしている人々はその水を全身に浴び、中には口に含む人さえいた。
 そこには生と死の明確な区切りはなく、照りつける太陽の下、泥色の水が静かに人々を包括するだけだった。
 あの光景がこの由比ヶ浜と重なるのは、明子が義経の子供の話をしたからだ。そういえば、この近くで太宰治が入水自殺を試みたとも話していた。

 この海も、生と死が渾然一体となっているのだ。

 その明子はというと、目の前の空間をただ眺めている。そこには彼女にしか見えないスクリーンがあって、サエキ氏の幻影が映し出されている。時折彼女は微笑み、かと思えば絶望の色をにじませる。
 僕は、彼女の隣で何の執着もなく海面に浮かぶヨットたちに視線を送る・・・

「鎌倉って、ほんとうに何とも言えない場所ね」
 境内に向かって歩きながら明子は漏らす。その瞳はぼやけている。
 歩き出した時、僕たちだけ風景から切り取られたような感覚が復活してくる。

 すると、目の前には観音堂が現れる。この建物は長谷寺の本殿で、内部には十一面観音菩薩立像が安置してあるとパンフレットに記されている。外観はまるで竜宮城のようにも見える。
「京都の高台寺を思い出すなあ」
 明子は本堂に近づきながらそうつぶやく。
「高台寺って、秀吉の愛人だったねねが、彼を弔うために建てた寺なの。この長谷寺も、あの寺に似た雰囲気よね。昨日の円覚寺とは全然違う」
 明子は物憂げな視線で観音堂を見上げた。

鎌倉物語 70

 眩暈はますますひどくなる。無秩序に叩かれる鉄琴の音が、頭の中でスコールのように響く。
 たまらず僕は、その場にしゃがみ込む。

 すると誰かが肩に手をやって、何度も声を掛けてくる。目を開けると傘を差した老婦人が、心配そうな顔を向けている。
 僕はどうにか膝を伸ばして立ち上がり、大丈夫です、と応える。
 彼女はほっとした表情をにじませ、あそこにベンチがあるから、少し休まれた方がいいですよと見晴台を指して言う・・・

 眩暈が完全に去った後で顔を上げると、境内には霧雨がけむり、紫陽花の幹をうっすらと湿らせている。雨に濡れた枝には葉が茂ってはいるものの、花はついていない。
 池の周りにはすずろ歩きする参拝者たちの姿がある。
 僕は咄嗟に辺りを見回す。しかし明子の姿が見あたらない。僕はまたしまったと思う。
 条件反射的に見晴台を見上げる。だが、そこにもいない。何人かの参拝者たちが海の方を眺めたり写真を撮ったりしているだけだ。
 うずくまっていた間に明子はまたどこかに消えてしまったのだという後悔が一瞬のうちに僕のすべてを暗くする。 

 見晴台に駆け上がると、そこは想像した以上に広く、多くの人がいる。テーブルも何台か出してあり、そこでコーヒーを飲むこともできるようになっているが、今日は雨模様とあって誰も座ってはいない。
 僕はさっきサエキ氏が手を掛けていた手すりまで歩み寄る。そこから振り向いて境内を見渡してみても、明子の姿は見えない。もうだめだろうと思う。彼女は隙を見て一人でここを去り僕の知らない世界へと消えてしまったのだ。
 地鳴りのようなため息をついた時、僕の腰に手が触れる。控えめな感触だ。
 振り向くと、そこにはベージュの帽子をかぶった明子が立っている。動転するあまり最初それが本当に明子かどうかさえ分からなかった。そうして気が付けば人目も気にせずに彼女を抱きしめていた。
「大丈夫?」
 明子は戸惑いながら言う。だが彼女は、意外にも無理に僕から離れようともしない。
「ごめんなさいね、ぼーっとしてて、勝手に先に進んじゃったみたい」

 それから僕たちは見晴台に立って湘南の海を見渡した。西の海岸には逗子の半島が伸びていて、ホテルからも見えた逗子マリーナのリゾートマンションがよりはっきりと窺える。
 視線を右に移せば半島は遠ざかり、水平線がのっぺりと続く。海面にはヨットの帆が幾つか立っていて、その合間を縫って水上バイクが水しぶきの線を引きずっている。霧雨はそれらの風景すべてをぼやかしている。
 僕はというと彼女が隣に立っているということがどうもうまく信じられないでいる。いや、うまく信じられないのは、自分が自分であるということかもしれない。

 そもそも僕は一体誰だろう? 生きているのだろうか、それとも死んでいるのだろうか? 
 僕は僕ではなく、もしかしたらサエキ氏なのかもしれない?

鎌倉物語 69

 この長谷寺は山を切り開いた場所に建てられているために、主要な伽藍は山門よりも高いところに並んでいるようだ。
「なつかしいなあ」
 明子は澄んだ声を上げた。
「ここのお寺はね、梅雨の時期になると紫陽花でいっぱいになるのよ」
 山門を抜けたところには美しい池が仲良く二つ並んでいて、彼女の言うとおり紫陽花の株が通路いっぱいに広がっている。
 僕はサエキ氏と明子が寄り添いながら満開の紫陽花の中を歩く姿を、恐る恐る思い浮かべる。
「そんなに深刻になるなよ」
 乾いた声が高台から聞こえる。サエキ氏は由比ヶ浜に面して作られた見晴台に立っている。
「あれこれ考えたって仕方ないんだ。人はどうせ皆死ぬ」
 サエキ氏は茶色がかった前髪をかき上げる。肩には白いセーターを引っかけている。
「たとえば千年っていう時間軸で考えてみなよ。そうすれば今現在の立ち位置というものが見えてくるから。人生はつかの間の灯さ。永遠に続く時間の中で、人は極めて限られた瞬間を生かされている。ここに大きな矛盾がある」
 彼は初めて僕の方を見る。その瞳は何かを諦めているようでもある
「でも、実は生と死は矛盾しないのだと気付く時がくる。死んだ時だよ。人は死んだ後になってはじめて自らの人生の意味を知ることになるんだ」
 サエキ氏は再び海に目を遣る。

 僕はサエキ氏に向かって尋ねてみる。
「明子にも同じことを語ったんですね?」
 だがサエキ氏は何も応えない。手すりにもたれて海に視線を投げているだけだ。
 さっきまでの霧雨はぴたりと止み、沖の空は明るくなり、青空さえ広がっている。海面は、まるで海龍王でも飛び出しそうなほどに不気味で美しい。
 その時、僕は覚えのある香りに包まれる。寿福寺のやぐらに立ち込めた線香の香りだ。ふと顔を上げると、さっきまで咲いていなかった紫陽花が色とりどりに咲き誇っているではないか! 
 目を凝らせば凝らすほど、青や紫は鮮やかさを増す。驚き呆れるほどの色彩だ。
 あっけにとられていると、今度はバッドで殴られたよう衝撃が走り、眩暈に襲われる。
 歪む風景の中を、おぼろげながらに人の姿が立ち上がる。
 紛れもない、サエキ氏と明子だ。
 二人は紫陽花の中を寄り添いながら歩いている。そうして本堂へと続く石段をゆっくりと登った後で、揃って見晴台に立ち海を眺め、人目を憚らずキスをする。

 こめかみをピストルで撃ち抜かれる。嫉妬という言葉では言い表せぬ感情が全身を駆け巡り、そのうち呼吸すら難しくなる。やはり明子が真に愛していたのは僕ではなかったのだという思いが絶望の谷底にたたき落とす。
 深く愛し合う二人の姿は、悪い運命のように僕の瞳の奥にこびりつく。正視できぬほどの光景は因果応報のしるしなのかもしれない。
 僕は過去に数え切れぬほどの嘘をつき、大切なはずの人を裏切ってきた。これはその報いなのだ。
 憂いの香りのする可南子の首筋がすぐそばに感じられる。

「私は今でもあなたのことをふと思い出すのよ。そしてね、どうしようもなく切なくなるの」

鎌倉物語 68

 高徳院の参道を南に下ると「長谷観音前」の交差点が現れる。
 それを右に折れた所には老舗風の旅館や和風料理店、オルゴール館などが道の両側にずらりと軒を連ねていて、その突き当たりに長谷寺の山門が姿を見せる。
 背後は山に囲まれていて円覚寺を思い起こしもするが、そもそもこの海辺にはあのような深い木々はないし、あの寺の山門ほどは威光を放ってもいない。かといって寿福寺の山門ほど素っ気なくもない。さながら雷門の縮小版のようでもある。

「こうやっていろんな寺を巡ってみると、やっぱり門はその寺をよく表してるってことが分かる気がするよ」
 僕がそう言うと、明子は穏やかな視線で門を仰ぎながら、微笑んだ。
「それにしても円覚寺に行ったのが昨日のことだなんて信じられないわね」 
 僕も全く同感だった。

 この三年間ある意味均衡を保ち続けてきた僕たちの関係は、今回の旅を機に、どこかに向かって動き出そうとしている。
その「どこか」とは二つしかない。
 一つは僕と明子はこれからずっと一緒に暮らすという道、もう一つは、明子が僕の元を離れるという道だ。
 憂慮すべきは、可能性としては後者の方がはるかに高いということだ。
 もし本当に離別の道をたどった場合、僕はこれまでの自分でいられるかどうか確信が持てない。というのも、鎌倉に来てからというもの、以前にも増して、切ないほどの恋心を抱くようになっているのだ。
 はたしてこれまでの人生の中で、こんなにも息が詰まるくらいに人を好きになったことがあっただろうか? 
 
 ふと可南子のことを思う。あの時たしかに僕は可南子を愛していた。そうして彼女も僕を愛してくれていた。可南子は一見弱そうで実は芯の強い女性だった。しかし芯の強い女性というのはどこかで脆さを抱え込んでいるものだ。
 僕はまさに彼女のそういう部分が好きだった。
 だのに僕は大学を卒業してすぐに美咲に恋に落ちてしまった。地滑りのような恋だった。そのことでどれほど可南子を傷つけてしまったろう。

 今思えば、明子は可南子とどこか似たところがある。しかし明子の抱えている闇は可南子の脆さとは異質のものだ。 
 その深さは計り知れないし、何より彼女が僕をどう評価しているかのかがまるで見えない。

 とはいえ、今回鎌倉に来て、僕たちの距離が縮まったのは確かだ。
 明子を理解するということは彼女の抱え込んできたたまらなさを理解することと同じだ。そうしてそのたまらなさの世界に入り込んでいくことで、僕は彼女をより強く愛するようになった。愛とは安定や均衡の中にあるのではなく、むしろ哀しみとか無力感とかと近いところにあることも、この二日間で明子から学んだ。
 それゆえ、旅の終わりに、この長谷寺でサエキ氏との想い出に浸ろうとしている明子に対して、胸が焦がれるくらいのやるせなさを覚え、狂おしいほどに彼女を求めているのだ!

「このお寺の観音様は、ほんとうに大きいのよ」
 僕の心にまるで気付いていない明子はそう言い、本堂の方を振り仰いだ。

鎌倉物語 67

「鎌倉の大仏さんと平等院の阿弥陀如来像の印相が同じだっただなんて、今初めて気づいた。鎌倉と京都は、ここでもつながってたのね」
 明子がそう漏らした直後に、突然強風が吹いて台座の周りの土埃を巻き上げる。観光客たちが小躍りする中、明子はジャケットの襟を立てて首を少しだけすぼめる。
「もちろん、前来た時は、ご主人も一緒だったんだね」
 言わなくてもいいはずの言葉がはずみで口から出てしまう。死者に対する優越(あるいは嫉妬?)があるのかもしれない。
「彼は信仰には興味がなかったけど、仏像は好きだった」
 明子は淡雪のような笑みを浮かべて返してきた。
「そういえば、二人で北鎌倉を歩いている時にたしなめられたことがあった。『どうせ人間は寿命が来たら死ぬんだ。今からあれこれと考えたって仕方ない』って」

 大仏に別れを告げて仁王門を抜けようとした時、ついに小雨がぱらつき始めた。霧雨と言った方がよさそうなほどの微細な粒だったが、今から参道を登ってくる人たちの中では雨傘の花もちらほらと咲き始めていた。
 明子は僕に、傘を持っているかと気遣ってくれた。これくらいの雨じゃまだ必要ないだろう、もし強くなればコンビニで買えばいいと答えると、彼女は安心した様子で、そうだねと返してきた。
 最後にもう一度後ろを振り向く。仁王門の間からは、人だかりに囲まれた大仏が不機嫌そうに座している。

「どうせ人間は寿命が来たら死ぬんだ。今からあれこれと考えたって仕方ない」

 サエキ氏の台詞《せりふ》が頭の中でくすぶっている。故人が生前いくら達観していたとはいえ、あの若さで死にたくはなかったはずだ。
 僕だって、いつ死ぬか分からない。
 高徳院の参道を歩く人々、そこにけむる霧雨、今から八百年前には名もない人々がこの場所に集い命がけで大仏建立に尽力した。彼らは何を思っていたのだろう?
 そして、彼らと僕の間に、いったいどれほどの差異があるというのだろう?
 そんな想像を巡らせていると、すきま風が入ってくるかのごとく、山本氏の姿が想念に入り込んでくる。
 彼は一体、誰なのだ?
「ねえ」
 明子は歩きながら横目でこっちを見た。
「最後にもう一カ所だけ寄りたいところがあるんだけど」
 山本氏の幻影がちらつく中、僕は応える。
「僕は問題ないけど、君の方はできるだけ早く帰りたいんじゃなかったのか?」
「うん、でも、せっかくここまで来たから、このすぐ先のお寺にも行っておきたくなったの」
 明子は、笑いとも戸惑いともつかぬ表情で前を向いている。
 風は、山から海に向かって吹いている。

鎌倉物語 66

「大仏って言うけど、ここは、正式には高徳院というお寺なのよ。元々は東大寺みたいな大仏殿があったんだけど、台風か津波かで流されちゃったのよ」
 明子は他の参詣者にぶつからないようにしながら言う。
「それでこの大仏だけが残ったというわけだな」
 明子はまぶしそうな顔で大仏を見ながら薄く微笑む。
「大仏さんも寒かろうな」
 思わず同情の言葉が出る。目つきが鋭いからそういう印象を抱いたのかもしれない。あるいは心なしか前屈みになっているために、たとえばストーブの前で暖を取る人のように見えなくもなかったのだ。
 その不機嫌そうな仏像の周りでは観光客が写真を撮ったり物珍しそうに指をさしたりしている。動物園のパンダさながらの扱いだ。
「仏殿が飛ばされたからこんな悲劇に遭うんだろうな」
「奈良の大仏だって、野ざらしになればこんな風に扱われるのよね」
 明子は同調してきた。
「でも、奈良の大仏殿が飛ばされても再建されるはずよ。天皇をはじめ将軍や有力寺院も崇め奉ってたから。でもこの大仏は、たしか庶民たちの寄付によって作られたんじゃないかしら。だからこんな風になってるのよ、きっと」
 なるほどね、と僕は言い、いささかあわれにも映る国宝の仏像をじっくりと眺めてみた。びっくりしたのは背面には内部への入口があって、そこに何人かの人が列を作って待っていることだった。

 この巨大な仏像の周りをぐるりと回って再び正面に戻って来た時、明子は首をひねりながらその手元に目を遣っていた。
「何度かここへ来たことがあるけど、今初めて気付いたことがある」
「何度かここへ来たことがある」という言葉だけがトリミングされて僕の耳の奥に引っかかる。
 明子は拝観受付で手にした寺のパンフレットに目を落としている。
「この大仏さんは、阿弥陀如来像だったのね」
「アミダニョライゾウ?」 
「仏の世界の中でもはるか西方にいらっしゃる慈悲深くて寛容な仏様で、死者を極楽浄土へ迎え入れてくれるの」
 明子は大仏の手元に向けて自分の手を差し出してこう言った。
「印相《いんそう》は上品上生《じょうぼんじょうしょう》だわ」
 僕には今の言葉が、日本語として認識できなかった。
「ほら、手を見て」
 僕も大仏の手に注目した。お腹の前で両手を上向きに重ね合わせ、人差し指と親指で輪を作っている。地味で真面目な印象だ。
「京都の平等院に行ったことある?」
 明子は、突然話題を転換した。
 記憶をたどってみるが、可南子と行った時も、美咲と行った時も、平等院には足を運んでいない。 
「平等院鳳凰堂《びょうどういんほうおうどう》の阿弥陀如来坐像《あみだにょらいざぞう》こそが平安期の仏像の最高傑作だという研究者も多いようだけど、あの仏像もたしかこの印相だったと思う。印相の中でも最上級で、生前に相当徳を積んだ人を極楽浄土に迎え入れるものなの」 
 僕は彼女の横顔に目を遣った。その向こうでは若い二人連れの女性が大仏をバックに写真を撮っている。

鎌倉物語 65

 江ノ電のホームにはすでに列車がスタンバイしていて、アイドリング音を唸らせている。緑色のソリッドカラーで塗られた車輌からはブリキのおもちゃのようなクラシカルなぬくもりが放出されている。
 車内はすでに乗客が座り込んでいるが、満席ではない。僕たちはちょうど二人分空いていた席にはまり込む。
 発車のベルが鳴る中、白髪の女性が一人、慌て気味に入ってきたのを最後に扉が閉まり、列車はのっそりと動き出す。

 窓の外にはありふれた住宅地の光景が広がる。生活の匂いが届いてきそうなほどに家々が間近に迫る。
「もちろん、大仏に行くのは初めてじゃないよね?」
 僕はそう聞いてみる。
「二回か三回は行ったかなあ」
 明子の声が震えているので少し心配したが、列車に揺られているだけのようでもある。
 鎌倉駅を出てまもなくして和田塚駅で停車する。だが、辺りは住宅の路地裏にしか見えない。こんな所に駅があるというのがまず驚きだ。
 それが、由比ヶ浜駅を過ぎたところで住宅地はいったん終了し、辺りは次第に鉄道の沿線的な風景になっていく。
「さっきのホテルの辺りに戻っている感じね」
 彼女の言うとおり、たしかに僕たちはホテル「NAGISA」の建つ海岸の方へと再び南下している。
「次の駅で降りるのよ」
 明子がそう教えてくれたかと思うと、いかにも駅舎らしい佇まいの駅舎が見えてきた。長谷駅だ。

 ホームに降り立つと同時に、潮風の洗礼を受ける。
 明子はベージュの帽子を取り出して深めにかぶり、紫の眼鏡をしっかりとかけ直した。
 反対側のホームに停まっているアイボリーの車体にはカールおじさんとその子供たちが富士山や大仏のイラストに向かって楽しそうにピクニックしている絵が描かれている。
 テレビで見たことのある江ノ電の風情が、目の前に再現されている。
 北鎌倉駅とは全く対照的だ。

 長谷駅の駅舎を出ると、すぐに通りが伸びている。
「この道が大仏に続くんだな」
 僕はきょろきょろしながら言う。狭い歩道は思っていた以上の観光客で溢れかえっている。
「長谷観音前」の大きな交差点には力強い毛筆でしたためられた「国宝鎌倉大仏まで徒歩5分」の看板が標示してある。その交差点をまっすぐに進むと、観光客向けの商店が一気に増え、賑やかさを増す。
 ホテル「NAGISA」の奥さんが、今日のような平日にはなかなか客が来なくなったと述懐していた寂しげな顔をふと思い出す。

 振り仰ぐと、朱塗りの門はすぐ目の前に迫っている。
 仁王門という札が懸けられたその門を抜けると、白い石畳が続き、その先にはお馴染みの大仏がいきなり鎮座している。
 大仏は、曇天にカモフラージュするかのように灰色の体を風にさらして、鋭い眼光で僕を見下ろしている。

鎌倉物語 64

 奥の詰所からは奥さんが出てきて、ぶっきらぼうな主人とは対照的な、タンポポの花を思わせる笑顔を僕たちに向けてきた。
「また、お待ちしておりますね」
 奥さんはどちらかというと明子の方を向いてそう言った。
 支配人は少しばかり背中を丸めて僕が支払ったお金を数えている。
 この際、気になっていることを尋ねてみる。
「今日は、我々の他にお客さんはいないんですか?」
 すると支配人は視線を落としたまま、「ええ、その通りでございます」と答えた。
「休日には、常連さんがちらほらお見えになるんですけどね。平日に来られる方はすっかり減ってしまいました。特に今の時期は」
 隣で奥さんが代弁した。話の内容とは裏腹に、表情はにこやかだった。
 すると、明子が小さな声を上げた。
「すてきなホテルでした」
 奥さんは心底嬉しそうな表情を浮かべて「ありがとうございます」と応えた。
 僕は、さっき明子と語り合ったレストランに目を遣る。
 羽を広げたカモメが二羽、窓のすぐ外を漂っている。カモメたちは議論でもするかのように何度か近づき合った後、やがてグレイな風景の中に溶けていった。
 明子もその風景に向けて目を細めている。

 支配人がタクシーの到着を告げると、僕たちは揃って表へ出た。外は思っていたよりも風が冷たく、磯の香りが鼻先にまとわりついてくる。
 改めて支配人に礼を言うと、彼は相変わらず堅苦しい表情で「恐縮です」とだけ返した。
 後部座席に乗り込んでドアを閉め、夫妻に向かって改めて頭を下げた時、支配人の表情は氷が溶けるかのごとくじわじわと緩んでいった。
 タクシーが動き出すと、それは「笑顔」と言ってもいい表情になっていた。僕はその中に少年の顔を見た気がした。
 明子は振り向いて、手を上げ続けている支配人と奥さんに応えている。二人の姿が完全に見えなくなった後、再び前を向き、「本当にいいホテルだった」と吐き出した。
 彼女の頬にはまた涙が伝っている。これまで涙なんて見せたことのない明子が、鎌倉に来て三度も泣いたことになる。

 鎌倉駅でタクシーを降りた時、思ったよりも人がまばらに感じられた。
 サラリーマンというよりは一般客の姿が目立つようだ。駅舎に掲げられた時計はもう少しで十時になろうとしている。
 ロータリーを見渡すと、マクドナルドの看板がまず目に飛び込む。僕にとって、世界で一番思い出深いマクドナルドだ。
 明子も風景全体を眺めている。その表情には、雨上がりの風情が感じられる。
「提案があるんだけど」と僕は言う。明子は僕の方を向く。
「せっかくだから、大仏を見ときたいんだ」
 彼女は僕の顔を見て何かを考えているようだったが、まもなくして、口元をほころばせて「いいよ」と言った。
「で、どうやって行けばいいんだろう?」

鎌倉物語 63

 そんなことをつぶやくとは、彼女は今、愛を求めているのだろうかと思う。
 ただ、もしそうだとしても、彼女の求める愛の形というものが僕にはつかめない。
 つかめそうで、つかめない・・・

「それで、結局静御前はどうなったの?」
 僕はあくまで話を前に進めることにした。
「運良く、斬られなかった。それほど頼朝は政子を頼ってたのね。英雄にはたいてい陰で支える女性がいる。基本的に女は強いのよ」
 明子は目を細めてしみじみと述懐し、その後で諦めたように笑いながらこう続けた。
「まあ、中には私みたいにどうしようもなく弱い女もいるけどね」 
 彼女はうつろな目を海に向ける。空はいっこうに晴れる気配がない。

「ずいぶんと話が横にそれちゃったけど、静御前が舞ったのは、私たちが結婚式を挙げた舞殿だと言われてるのよ。私がそのことを知ったのは主人が亡くなった後のことだけどね」
 明子は動かなくなった指先に視線を落としてこう言った。
「だから私たちは、静御前と義経みたいに引き離されちゃったのかしら。でも、あそこで結婚式を挙げた夫婦はたくさんある。幸せになっている人も数え切れない。やっぱり、私たちはこうなる運命だったということなんだろうね」
 
 僕はぬるくなったコーヒーを飲みながら湘南の海に長く伸びる逗子の海岸に目を遣る。白く瀟洒な逗子マリーナの建物がうっすらと煙っている。それらはまるで記憶の中の風景のように感じられる。

 それから僕たちはしばらく海を見た。
 互いに別々のことを考えていたのだが、そこには数学の部分集合のように、どこか重なる領域があるということに僕は気付いていた。だから明子と一緒にいる時にしばしば感じるさみしさを抱くことはなかった。

 僕たちを取り巻く空気の潮目がやや変わったのを感じたとき、そろそろここを出ようと提案した。海を見ていた明子はゆっくりと視線をこっちに向けて、「そうだね」と返してきた。
「ところで、これからどこへ行こう?」
 それについて明子は考えたものの、取り立ててアイデアは浮かばないらしい。それで「何時までに帰ればいいのだろう?」と質問を変えた。
 すると明子は握りこぶしを唇の下に軽くあてがい、こう答えた。
「何時までということもないけど、できれば早めに帰ってゆっくりしたいかな。昨日けっこう歩いたし、何となく体がだるいの」
 
 それから僕たちは長いこと抱き合った。鶴岡八幡宮での明子とはまるで別人のように彼女の体は温かかった。

 荷物の整理をし、簡単に部屋を片づけて、一階に下りると支配人が雑巾でロビーの床を磨いていた。
 支配人はふっと顔を上げ「お、これは失礼いたしました」と言い、寿司でも握るかのように手際よく雑巾を絞って水の入ったバケツにちょい掛けした。それからポケットのハンカチで手を拭きながらフロントに戻った。
「お世話になりました、いろいろと」
 僕が言うと、支配人は表情ひとつ崩さずに「どうも、ありがとうございました」と返してきた。
 その張りのある声は絨毯の匂いのするフロアに響き渡り、潔く消えていった。

鎌倉物語 62

 僕は光源氏と源義経を同時に思い浮かべてみた。
 二人とも詳しく知らないところが多いが、両者は何かしら重なり合うところがあるな気もする。あくまでイメージ上の話だが。

「義経は壇ノ浦の戦いで平氏討伐の最大の功労者だったのに、兄の頼朝はそれを良くは思わなかったのよ。義経の方も次第に自立を目指すようになってね。それで、ついに頼朝は義経を殺す命令を下すの」
「まさに独裁者だな」
「将軍ってそういうものよ。戦国時代を生き抜いたリーダーたちの陰では、多くの犠牲者が出た。義経もその一人。彼は悲劇のヒーローなのよ」
 彼女は冷淡に説明した。

「頼朝から討伐令が出された義経は兵力を建て直すために九州へ逃れようとするの。でも、頼朝軍は本気で迫ってくる。それで一行は奈良の吉野山に身を潜めて機をうかがった。その時に一緒にいたのが静御前。だけどそんな山奥にいても見つかってしまってね、義経はどうにか逃げ切ることができたけど、静御前は捕らえられてしまった。彼女は身重だったのよ」
 明子は小さく動く指先に視線を落としながら話を続ける。

「静御前は一緒にいた母親と鎌倉に連行されて取り調べを受けるの。で、ある日頼朝が鶴岡八幡宮に参拝した時に、静御前に舞踊を奉納するように命じるの。遊女の中でも静御前は舞の名手として知られていたのよ。彼女はどうしたと思う?」
「難しい質問だ・・・。最後まで固辞し続けて処刑されるとか?」
 明子は首を横に振った。
「すばらしい演舞を舞うの。そして踊りに合わせて歌を詠むの。『吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき』ってね」
「どういう意味なの?」
「吉野山の雪を踏み分けて消えた義経の跡が恋しいっていう意味よ。頼朝の前でそんな歌を詠んだわけだから、激怒されるのは当然のこと。ましてや幕府の拠り所となる八幡宮での出来事とあって、周囲は騒然とするのね。でもその騒ぎを鎮めた人がいる。誰でしょう?」
 分からない、といつもの返事をすると明子は指先の動きをぴたりと止めて答えた。
「北条政子。頼朝の妻で、三代将軍実朝が殺された後、執権政治を始める尼僧ね」
 その話を聞いて、寿福寺の実朝の墓の近くに政子のやぐらがあったのを思い出す。
「頼朝のことだから、その場で静御前を斬り捨てるくらいのことはできたはず。それくらい彼もぴりぴりしてたのよ」
 明子はあたかも実体験を回顧するかのように言う。
「その緊迫した場面で政子は頼朝をなだめるの。私が静御前の立場だったとしても、おそらく同じような抗議行動を取るでしょうって」
 明子は窓のふちに向けて優しいまなざしを送る。

「というのも、元々は政子も頼朝の愛人だったのね。彼女の父は頼朝の敵で、伊豆に置かれた頼朝を監視する立場だったの。それが、父の目の届かないところで政子と頼朝は恋に落ちてしまった。その後政局が不安定になって、二人は結婚するのよ。そういう経験をしているだけに政子は静御前に同情するところもあったんだろうね」
「かなり複雑な世の中だったんだなあ」
「だからこそ本物の愛が生まれたのかもしれないね」
 明子はそうつぶやいた。
「愛がいつもモラルの内側にあるとは限らない。愛は時に不安やさみしさをバネにして大きくなるのよ」

鎌倉物語 61

「山本さんの写真を見てるとね、やっぱりこの人は実在してたんだっていう気がするし、五年前に亡くなったのも嘘じゃないように思えるの」
 だったら、昨日の経験は、いったい何だったというのだろう?
「昨日から、山本さんのことずっと考えてるの。ひょっとして、この世に未練を残して、今もどこかを彷徨ってるんじゃないかって。そう考えるとね、胸が詰まるのよ」
 明子の瞳には再び重い影が落ち込む。僕は自分の発すべき言葉を探してみるが、見つからない。
 そもそも、山本氏が亡くなっているということをどうしても呑み込むことができない。

「この海をいったいどれくらいの人が眺めたんだろうね」
 明子は長いため息をついた。
「主人もこの海が好きだった」
 僕は短いため息をついた。
「大学生になって自由を手にした瞬間、二人でいろんな所に行ったの。海水浴もしたし、花火大会も見た。サザンオールスターズのコンサートにも行ったし、江ノ島の近くで魚釣りもした。後で知ったことだけど、私たちが釣りをしたのは太宰治が銀座のホステスと自殺未遂を計った場所だったらしく、二人でぞっとしたわ」
 明子は、一瞬、瞳をセピア色に輝かせた。

 今はただ、彼女の言葉を受け入れるしかない。カタルシスによって、少しでも何かが解決することを祈って。僕にとってそれは決して苦痛でもない。これまでずっと採り続けてきたスタンスだからだ。

「主人は日常のすべてを科学に結びつけることで世界を認識する人だった。生きることとは死なないことだと捉えてて、だから医学の進歩に期待していた。でも、科学の限界も知っていたのよ。そこが彼のすごいとこでね、そのことが、さらなるチャレンジ精神に火を点けたの。鎌倉に来て海を眺めるってことは、研究で疲れた頭をリセットして、人間らしさを取り戻すための大切な儀式だったのよ。彼にとっては」
 明子はそう言い、視線を僕に向けた。
「私たちが結婚式を挙げたのはどこだかわかる?」
 もちろんそんなこと分からないが、それでも何かを答えようとしている僕を気にするふうもなく、彼女は先に答えを言った。
「鶴岡八幡宮なの。ほら、さっき私が立っていた小さな神社の隣に吹き抜けの建物があったでしょ、あそこよ」
 よく覚えている。僕が何度も通り過ぎた朱塗りの建物だ。
「あそこは舞殿《まいどの》って言ってね、神前結婚式ができるようになっているの。私たちの式は、ごく簡単だったけどね。父はそんなちゃちな式には出ないと言い張って参加しなかったから、私の親族といえば横浜にいた伯母さんと従兄弟《いとこ》だけだった」
 昨日タクシーの中で突然泣きだしたのは、そんなことがあったのかと今になって納得した。
「静御前《しずかごぜん》って知ってる?」
 明子は突然話を変えた。名前だけならどこかで聞いたことがあるが、それでも僕は、知らないな、と答えておく。
「源義経の奥さんよ。元々は遊女で、正妻じゃなかったんだけど、魅力的な女性だったんだろうね」
 話題が切り替わるとともに、明子は久々に穏やかな表情を浮かべた。
「ほら、光源氏が、『源氏物語』のヒロインの紫の上と出会ったのが京都の鞍馬寺じゃないかっていう説があるっていう話を昨日したでしょ。じつはその鞍馬寺って義経が幼い頃に預けられてたお寺でもあるのよ」
「たしか京都と鎌倉がつながっていたっていう話だったな」
 僕が言うと、明子は呼応するかのように続けた。
「虚構の物語と現実の世界もね」

鎌倉物語 60

 僕がそう言うと、明子は携帯電話を取り出して画面を見せた。
 そこにはこう書かれてある。

 山本耕二は信仰の世界を求めた写真家だった。五十代になってから初めて写真と出会い、きわめて禁欲的なまなざしでシャッターを押し続けた。
 代表作はやはり『静かな散歩道』であろう。この写真集は、比叡山延暦寺を拠点とした京都の密教寺院が舞台となっている。
 氏が被写体として選んだのは洛中にある寺院ではなく、原理的な山岳信仰に基づいて建立された山深き仏刹ばかりである。氏は三年間にわたり京都の四季に佇む古刹と、そこに参詣する人々の姿を写し続け、現在における信仰の姿を表現し続けたのである。なおこの作品は『第二一回よみうり写真大賞』の特別賞を受賞している。
 その後は、京都を離れ日本各地に活動を移し、最後は鎌倉の禅刹を撮り続けた。『静かな散歩道』の続編が期待されたが、道半ばにして病に倒れた。早すぎる、無念の最期であった。
「これは誰が書いたんだい?」
「尾田健一郎っていう人。日本写真家協会の理事で、山本さんと親交があったみたい」
「その人は実在してるの?」
「ネット上には何度も出てくる人よ」
「信じられない」

 僕と明子は揃って窓の外を見た。積極的に海が見たいというわけではない。他に目を遣るものがなかったのだ。

 しばらくして明子が口を開いた。
「あの写真、どうなったんだろう?」
 僕は横目で彼女の顔を見た。
「昨日、山本さんに撮ってもらった写真」
「あの人が本当に五年前に死んでるんだったら、昨日は五年以上も前のことになる」と僕は言う。
「その頃、私は夫を亡くして、どこへ行こうか迷っていた時期だった」
 僕はというと、とりあえず社会保険事務所に就職したものの、何の目的も持たずに惰性で生活していた頃だ。
 とはいえ、今なお、人生の目的は定まっていないが。
「もし・・・もしよ、昨日が本当に五年以上も前の出来事だったら、あの写真は現像されて、どこかに存在していると思うの。それが気になって、昨日からネットで調べるんだけど、どうしても見つからないのよ」
「もし見つけたら、いったいどうなっちゃうんだろう。俺たちはタイムスリップをしていたことになるんだろうか?」
 僕はふと今が五年以上前じゃないかと電話の画面で確かめた。だが、今は、ちゃんと今だ。
「私があと十歳若かったなら、その写真を探すと思う。でも、もう今はできない、そんな体力残っていない」
 そう言って明子は再び携帯電話に視線を落とし、次の画面を見せた。そこには一枚の画像が表示してある。
「『静かな散歩道』という写真集の中でも評価が高い写真。『叡山《えいざん》の朝』っていうタイトルがついてる」
 それは朝靄の山道を老夫婦が手を携えながら登っている光景をとらえた写真だ。
京都近郊とは思えないような原野の中、靄に包まれた古木が屹立《きつりつ》し、いかにも幻想的な世界が広がっている。
 最初僕は、風景の上に夫婦の写真が合成されているのかとさえ思った。女性が着ている紫のジャンバーがあまりに鮮やかだからだ。だが、しばらく眺めていると、二人は今から自然の中に溶けていくかのようにも見えてくる。静と動が交互に現れる、不思議な作品だ。 
 画面を下にスクロールすると、「雪の横川中堂《よかわちゅうどう》」という写真が続いている。清水寺のように幾重にも組まれた舞台の上に鶴岡八幡宮の本殿を思わせる朱色の楼閣が建ち、小さくにじんだ雪が全体に舞っている。人物は写ってはいないが、寂寞とした風景の中、横川中堂の朱色がいかにも鮮やかなコントラストを見せている。そうして、その人間が創り出した色は、この写真でも、今から自然の中に溶けてゆくかのような印象をもたらす。

「これらの写真は七年前に撮られたことになっている。そして、山本さんは、五年前に、鎌倉のお寺を撮っている最中に亡くなってる。だとすれば、昨日寿福寺で出会ったのは、亡くなる直前だったのかもしれない」
 明子は画面を覗き込みながら言った。

鎌倉物語 59

 そうやって海に目を遣ったまま、彼女は静かに声を上げた。
「想い出すね」
 僕は首を傾《かし》げた。
「初めて旅行に行った時のこと。仙台のホテルでお酒飲んだね」
 僕は頷《うなず》きながら「ああ」と返した。
「こうやって外で食事することもほとんどなかったね」
「昨日あったじゃないか。無窓庵でビーフシチュー食べたし、夜はマクドナルドにも行った」
 僕がそう言うと、彼女は乾ききった笑みを浮かべた。
「いっそのこと愛想を尽かしてくれた方がいいのよ」
 明子の言葉には重みがこもっている。しかし僕はあえて何もコメントしない。
明子は、海に向かって空の色と同じため息をついた。
 僕は紅茶を飲んだ後、さっきよりも冷たくなったクロワッサンをちぎって口に入れた・・・

「あなたは私に未来を向いて生きなさいって言う。それができればどんなに素敵だろうっていつも思ってるのよ。でもね、私は愚かだから、どうしても過去を忘れることができないの」 
 明子はセルロイドの人形のような冷淡さでそう言う。
 とはいえ、そのネガティブな言葉は僕の心を傷つけない。再び明子と二人でこの部屋に戻ってきたことを、命拾いでもしたかのように尊く感じているからだ。
「仙台のホテルで、あなたに過去の話をした時、何だか信じられなかった。まさか誰かに打ち明けるだなんて思ってもみなかったから」
 明子は、僕と彼女の間にある何かに向かって話しかけているように見える。
「しかも言葉として外に出した途端、自分を苦しめていた過去とはこの程度のこと だったのかとさえ思ったのよ。でもね、それって、とても怖いことなの。死んでいった者にとっては、忘れられることほど哀しいことはないはず」
 僕は備え付けのポットで淹れたインスタントコーヒーを口にする。レストランで飲んだ紅茶と比べるとさすがに劣るが、それはそれで構わない。
 明子は鶴岡八幡宮で見せた表情からすると、ずいぶんと落ち着いている。支配人と奥さんが作った朝食が効いているのかもしれない。
 ただ、いつまた変調をきたし、僕の前から走り去るのかわからない不安定さを孕んでもいる。彼女のバイタリティは、昨夜のキャンドルのようにゆらゆらと揺らめいていて、今にも消えてしまいそうだ。

 すると明子は、だしぬけに口を開け、僕の目にうつろな視線を送ったまま、「あ」という声を出した。
「そういえば、山本さん、亡くなってるみたい」
 僕も口を開けたまま、彼女の口を凝視した。
「亡くなってからもう五年経ってる」
「ごめん、ちょっと、話がよくつかめない」
 明子は表情を変えずに、再び顔を海の方に向けた。
「私も何かの間違いだと思った。でも、インターネットで調べると、たしかにそう書いてあったの」
「君はだまされてるんだ」
「何に?」
「何って、そりゃ、あの人にだよ。まさか昨日会った人が幽霊だとでもいうのかい?」
作者

スリーアローズ

Author:スリーアローズ
*** 
旅に出ましょう
それも
とびっきり寂しい旅に・・・

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