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鎌倉物語 4

「その小説の主人公は貧しい女の子なんだけどね、列車の中で芥川の隣に腰を下ろすの。よく見れば、三等室の列車の切符を握っているのに、間違えて二等にいるのよ。でね、トンネルに入る直前に、重い窓を必死に開けようとするの。芥川はすべてが我慢ならなくなったんだけど、結局窓は開いて、トンネルの中だから黒煙が立ちこめてきて、彼は怒り出す寸前だったのよ。そしたらね、トンネルを抜けた瞬間、女の子は窓の外に身を乗り出すの。何をしたと思う?」
 全く予想がつかないと僕が言うと明子は口元をほころばせて話を続けた。
「見送りに出ていた弟たちに蜜柑を投げるの。つまりその娘は家族のために身売りに出されるところで、弟たちに最後の愛情を注ごうと蜜柑を投げたのよ。その光景を目撃した芥川は切ない気分になるの。そして、それと同時に憂鬱が少しだけ晴れる、そんなお話よ」
「なんだか、俺の知ってる芥川とは印象の違う話だな」
「彼は古典をモチーフにした小説が得意だったからね。『羅生門』も『鼻』もそのたぐいよね」
 さっきまでとは別の魂が宿ったかのように、明子の口の動きは滑らかになっている。そんな彼女を見ると僕の心も少しだけ晴れた。
 明子と一緒にいると格別の居心地の良さを感じる瞬間がある。人は天国に憧れる。明子から放出される心地よさは僕にとってはまさに天国に近いものがある。
「私にとってあの小説は、たまらなさを吹き込んでくるの。何とかしたいけど、どうすることもできない、でも決して諦められない、だからたまらなくなる」
 明子の話はまだ終わっていなかった。
「じつはね、あの小説の舞台は、まさにこの横須賀線なのよ。だから、この列車に乗るたびに、芥川のことを思い、主人公の女の子を思い出すの」
 明子はそう言い、浅く座り直した。そして空気中に浮かぶ窒素原子でも追いかけるような目で虚空を見つめた。
紫の眼鏡には光の筋が反射している。横浜では薄曇りだった空は、青色の部分の面積を確実に大きくしている。初秋の乾いた空だ。
 保土ヶ谷を過ぎてからは住宅地が続き、のどかな景色が広がりはじめた。横浜から離れれば離れるほど、明子の表情からは硬さが消えていく。東戸塚の駅で何人か降りて行った後は、乗客もわずかになった。
 彼女は軽く目を閉じて何かを考え込んでいる。その肩越しに、とてつもなく大きな白い仏像が現れ、そっちに気をとられていると、隣で明子がつぶやいた。
「大船観音だ」
 明子はその慈悲深い仏像をぼんやり眺めながら言った。
「ということは、次はいよいよ北鎌倉ね」
 大船駅を過ぎた途端、辺りの雰囲気は急変した。突然緑が深くなってきたのだ。間近にまで迫る森で空が見えなくなり、別次元の世界に突入するかのような感覚にとらわれる。
 すると、「次の停車駅は、北鎌倉」というアナウンスが流れる。景色に合わせるかのような低くて渋い声だ。それにしても、こんな森の中に駅があるのだろうかと疑念さえ抱く。
 やがて列車は減速し、森を抜けたところに集落が現れる。明子は風景を気にすることなくボストンバッグを手に取って、やおら立ち上がった。
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Author:スリーアローズ
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