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鎌倉物語 32

「ここに来たことには何か意味があるのよ。心が不思議なほどすっきりしてるもの」
 咄嗟に声の方向に目をやる。そこには明子がいる。ネイビーのハーフコートを身に纏《まと》いベージュの帽子を深くかぶり、紫の眼鏡をかけている。
 僕は彼女の背後をきょろきょろ見回す。
 明子は僕の顔を覗き込んで、どうしたのと言い、少し笑う。どうやら、彼女はまさしく明子のようだ。
「だいぶ疲れてるみたいね」
 僕は深呼吸する。寿福寺の空気が肺に入ってくると同時に頭が重く響く。脇の下には嫌な汗をかいている。木立の奥で烏が立て続けに鳴く。

 僕たちは何事もなかったかのように来た道を黙って引き返している。明子は前を向き僕は下を向いている。赤い布を着た五体の地蔵が視界に飛び込む。彼らは仲良く並んで合唱でもしているように映る。曲のタイトルは『みんなで死ねば怖くない』だ。
 まもなくして朽ちかけた山門が再び現れる。そこから振り向くと、魚の鱗のような本殿の瓦が夕日に輝いている。彼女は本殿に向かって手を合わせ頭を下げる。僕はその様をぼんやりと眺める。
 さっきのやぐらの中に座っていた女性の姿がはっきりと頭の内側に貼り付いている。線香の香りも依然としてくすぶっている。

 総門を抜けると踏切の音がして、列車が走り去る。窓の中には室内灯に照らされた乗客が見える。
 目の前にそびえる山の上には紫色がかった空が広がっている。携帯電話を取り出して時刻を確認すると、あと少しで十七時になろうとしている。ということはこの寺に二時間近くもいたことになる。そのことにまず驚く。
 昼に無窓庵で入手した「北鎌倉さんぽマップ」を広げると、意外にも鎌倉駅はすぐ近くだということが分かる。
 僕たちは住宅地の間に続く細い路地を横須賀線の線路に沿ってさらに南下する。
 膝に痛みを覚えているが、すたすたと歩を進める明子を前にして弱音を吐くなんてできない。それにしても日頃は運動などしないはずの彼女がどうしてこうも快調なのか解せない。彼女は朝来た時よりも体調が良くなっているようにさえ見える。
 辺りはたちまち街らしい様相を呈し、市役所や税務署の看板も見られるようになる。その並びには紀伊国屋もあり、トートバッグを提げた買い物客で賑わっている。
 街の風景に気を取られている間に鎌倉駅に着いていた。
 駅舎は思った以上に小規模でこれといった特徴もない。駅前には小さな広場があるがそこには公衆トイレとこぢんまりとした時計塔が建っているだけだ。ここは西口でメインは東口の方だからよ、と明子は説明したがやはりどこか物足りない。遠くで焼き鳥の香りが漂う。
 僕たちは鎌倉駅から横須賀線に乗り、北鎌倉駅に逆行した。コインロッカーに荷物を預けていたのだ。
「この辺りが出たとこ勝負のつらいところよね」
 列車の中で明子は苦笑いを浮かべた。
 彼女の瞳はこれまで見たことのないくらいに明るい。
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