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鎌倉物語 58

 何はともあれ席に着こうと僕は提案し、支配人の前を通り過ぎた。明子は寝ぼけたような顔をして椅子に座った。

 僕たちに用意されていた席は窓際の特等席だった。晩秋の由比ヶ浜が間近にあり、所々で上がる波飛沫《なみしぶき》、空を舞うカモメたちがよく見える。沖には数艘《すうそう》の船が出ている。
 その景色を明子はぼんやりと眺めている。
 すると感じのよい笑顔を浮かべた初老の女性が足音を立てずにやってきた。おそらく支配人の奥さんだ。
 彼女は「おはようございます」と言った後でクロワッサンとバターロールを置いた。それから「お飲物はコーヒーと紅茶のどちらにいたしましょうか?」と歯切れの良い声で聞いてきた。
 僕は明子の方を向きオーダーを待ったが、何も出てきそうにないので、紅茶を二つ持ってきてもらうように頼んだ。

 厨房へと去って行った奥さんと入れ違いに今度は支配人がオムレツのプレートを運んできた。ラグビーボールのミニチュアを思わせるふっくらとした厚みのある真黄色のオムレツだった。中央には真っ赤なトマトケチャップがかけられている。付け合わせはパセリだけというシンプルな料理だが、十分な個性を漂わせている。
 
 今度は奥さんがサラダと飲み物を運んできた。細切りのキャベツの上にキュウリとトマトが入っていて、ポテトサラダが載せてあるだけの至ってオーソドックスなサラダだが、一つ一つの素材は瑞々しく輝いている。きっちりと描かれた静物画のような彩りだ。
 僕がサラダに目を落としていると、奥さんの方から話しかけてきた。
「すべて自家栽培なんですよ」
「ここで作ってるんですか?」
「ええ。裏が菜園になっていましてね、支配人がずいぶんとこだわってるんですよ。ビニールハウスもあるからこの時期まで夏野菜が採れるし、農薬も化学肥料も一切使わないからおいしくて安心なんです」
 奥さんは口元に笑いじわを寄せた。
 僕はまずフォークでキュウリを刺してそれを口に運んだ。軽く噛んだだけで水気が口の中にほとばしった。過ぎ去った夏の香りだ。
 思わず明子にも勧める。だが彼女は無反応だ。
 
 明子は大きく取られた窓の外に広がる湘南の海に視線を投げた。空はまんべんなく灰色をしている。水平線はぼやけており、左から延びる岬がうっすらと煙っている。蜃気楼のようでもある。
 そうやってしばらく外を眺めた後で、明子は静かに紅茶を口元へ運んだ。そして再度海に目を遣った。
「せっかくだから、食べたらどうだい?」
 僕がそう言うと、彼女はこっちに顔を向け、キュウリにフォークを刺して、口に運んだ。
 僕は手にしていたティーカップを置き、オムレツに手をつけた。新鮮な卵の匂いが口いっぱいに広がり、バターの風味が後からついてくる。焼き加減もスポンジケーキのようにふんわりとしている。
「あの支配人が時間にうるさい理由も分かるような気がするな」
 明子は依然として物憂げな顔をしながらも、かすかに頬を緩めた。それから、左手で頬杖をついた。
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