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京都物語 189

「もちろん明子さんが藤壺のことを知らないはずはなかった」と真琴氏は言った。「だから『藤壺物語』を語って聞かせた時点で、私の過去にどんなことが起こったのか、そのあらましを呑み込んだのもうなずけた。ただ、明子さんは単にあらすじを理解しただけではなかった。言霊の世界を肌で感じ取っていた。彼女もまた、言葉の世界の恐ろしさを、身をもって体験していた。そういう意味では、私たちはつながっていた。そんな感覚を共有したのは、明子さんが初めてだった」
 真琴氏はそこまで話してから娘の方にくるりと顔を向け、「悪いけど、冷たい飲み物をもってきてちょうだい。喉が乾くの」と声をかけた。橘美琴は、トレイの上に置いていたワインを入れるのに適していそうなデキャンタを持って、母親のグラスにゆっくりと注いだ。溶けかけていた氷たちがグラスの中で転がる音が部屋に響いた。
「亡き桐壺更衣のことを片時も忘れることのなかった桐壺帝は、なにもかもが嫌になりかけた頃、藤壺の存在を知る。彼女は不思議なまでに桐壺更衣に似ている上に、高貴な身分の出ということもあって、ごりっぱな様子でいらっしゃる。その非の打ち所のない女性に、桐壺帝も次第に心を慰められてゆく。喪失の悲しみを埋めるには、新たな愛を見つけ出すしかなかった」と真琴氏は淡々と語り出し、ストローでカルピスを飲んだ。
「光源氏も帝について藤壺の元を訪れるたびに、他の女御の中に身を隠すようにしている義母の姿を垣間見る。そこにいる女性たちはそれぞれに皆きれいだったが、その中でも藤壺は本当に若く、かわいげな様子で、光源氏は自然と目がいってしまうのだった」
 真琴氏はそう言って、毛糸のブランケットを膝に掛け直した。
「光源氏には母の記憶はないが、その母に似ていると周りから言われるのも嬉しくて、いつも一番近くで姿を見ていたいと幼心に思った」と真琴氏は語り、視線を再び僕の頭上に向けてこう言った。「それが藤壺と光源氏の運命のはじまりだった」
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