「完全に理性を失ってるな」と僕は奈月に続いた。とはいえその心理状態は痛いほどによく分かった。人は恋を求める。だが、いったん恋にはまってしまえば、それはとても恐ろしいものだということが実感される。恋とは、もしかして、麻薬に近いのかもしれない。
「いよいよ都に帰る準備にかかりはじめた頃、喜びに沸く供人たちの中で、当の源氏だけはふさぎ込んでいました。あれほど都に帰りたかったはずなのに、いざその願いが叶うと、明石の君が途端に恋しくなる。私思うんですけど、願いって、そんなものかもしれないですね。手に入らないことだから願うわけで、実際に手に入ってしまえば、意外と味気なかったりして」と奈月は声の調子をやや落とした。きっと彼女はまた、自身の結婚のことを言っているのだろうと僕は思った。
「その時の光源氏の心境は、こんなふうに書かれてます。『なぞや心づから今も昔もすずろなることにて身をはふらかすらむと、さまざまに思し乱れたる』。訳すと、どうして私は今も昔も、後先を考えずに恋に落ちてしまうのだろうと、源氏は思い悩んでいらっしゃる、という意味です」
そうだ、恋というものは、後先を考えながらはまりこんでゆくようなものではないのだ。僕は心の中でそう唱えた。きっと源氏は、明石の君との恋を後悔しているのではなく、恋の本質を嘆いているのだろう。
「そんな源氏の姿を見て、事情を知っている供人たちは、『あな憎(にく)。例の御癖ぞ』とひそひそ話をしてます。彼らは、源氏の恋を心の『癖』だって、よく分かってます。周りの人たちにもバレバレなほどに、源氏も恋の病にかかっていたということなんでしょうね」
奈月はしおりを参考にしながら話を進めた。
「そして、もう1人、源氏の帰京を嘆く人物がいました」
「分かった、明石の入道だ」と僕が答えると、奈月は「ピンポーン、大正解!」と声を上げた。きっとあの爺さんのことだ。ありえないくらいに落胆したに違いないと僕は想像した。
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